近藤喜文さん追悼文集 近藤さんのいた風景

近藤さんは、「あこがれ」を具体的に表現できる稀な方だったと思います。あこがれに付随するもろもろの感情、不安やおそれや自分のなさけなさやうれしさや喜び、夢を思い描くせつなさが近藤さんの描く絵にはいつも感じられました。「耳をすませば」を観せてもらった後はその近藤さんの思いが残って、幸せの余韻に浸っていました。

幸せの余韻というのは実に共感できる表現ですね。「千と千尋の神隠し」を観終わったときはただ中華料理が食べたくなっただけだけれど、「耳をすませば」は確かに幸せの余韻を僕も味わっていました。幸せであることに、演出は必要なくて、ただ透き通ってくるものですね。最近アニメを見ていて、工業製品としての萌えじゃない、しぐさとか表情、人物の動きについてやさしいぬくもりを覚えたことが、果たしてあっただろうか。視聴者の等身に適った視線による、平凡で鮮やかな動きの一連にホッとするような他愛のない日常性を、削除した先に萌えは発生するのだということを、少し寂しく思うのです。萌えは萌えでいい。けれど今は萌えしかないじゃないか! そういう風に憤らずにはいられなくなる、そういう本でした。