妄想力 ヒトの心とサルの心はどう違うのか

妄想力 ヒトの心とサルの心はどう違うのか

妄想力 ヒトの心とサルの心はどう違うのか


ドルが金本位制から兌換制に切り替わることで、経済規模が何十倍にも膨れ上がったとき、紙幣に金を見立てるのはまさしく市民の妄想力に他ならない。そこに例えば、アメリカの軍事とか政治という大きな影響力が考えられるとしても、それらは評論家の口八丁、決して市民ひとりひとりの目に見えることじゃあない。人々の目に映っているのはただの紙っぽらでありただのコイン。妄想が現実を変えるなんていうと、とても大げさな、まるで資本主義を今さら共産化するぞみたいな愚かしい響きがあるけれど。それはどうってことない、市民でひとりひりが、見ている・思う・感じる・見立てる物事の最大公約数がたまたま「現実」と呼ばれているに過ぎなくて。「現実」はアメリカや世界よりもはるかに僕ら個人に近しく、現実は究極的には極私的であるともいえます。だって、現実を見ているのは誰でもない自分であって、「現実」を規定しているのも自分たちに他ならないのだから。
「願いはきっと叶う」とヒロインは力説する、その同じ文脈で「妄想はきっと現実化する」。だって僕らはそういう風にして生きてきたのだから。これからだってそういう風に生きていくことは全然おかしいことじゃないのですよ。要は僕らが信じるに値する妄想を、どれだけ確信を持って社会に発信し、最大公約数化していくかという作法の問題なんでしょうかね。