見えるモノ 見えないコト

物は、光が跳ね返って目に入るから、見えるんだそうです。僕らのいういわゆる物は、"物そのもの"ではなく、光であって、人間は光を見ることができる、いや、光しか見ることができないという意味で、世界とは光とその反射によって成り立っている。"物そのもの"を見ているわけではないのです。少なくとも世界とは跳ねっかえりの産物であり、光を吸収するのではなく反発する、つっかかってくるからこそ、つまり根源的にツンデレなのだと。そういいたいわけでは決してありません。
僕が青年時代に感銘を受けた本、「この子らを世の光に」(糸賀一雄著)のあとがきに、こうあります。

 私はこの母子像に、「世の光」と名づけた。世の光というのは聖書の言葉であるが、私はこの言葉の中に、「精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。精神薄弱な人たち自身の真実な生き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目ざめ救われていくのだ」という願いと思いをこめている。

目ざめ、救われるための世の光。僕らは実のところ光を見ることができているのか、不安に思うことってありませんか。木漏れ日を地面に映す陰影の消去法として、僕らはそこに光があることを間接的に推測するしかなくて、夜空をちっぽけにくりぬく星光もまた同じよう。太陽を直接見てまぶしく感じるのは、果たして光を見ていることになるのかどうかも怪しい話です。それはたとえば、3から2を引いたら1になるから、3は1なのだと言い張っているような強弁さで、3は3、1は1、別モノだろうという疑いを拭えないのです。
でも、こうも思うんですね。物はいつか壊れる、見えている形あるものはいつか失くなるのだと。それが僕らの生きている間であるとかないとか関係なく、永遠ではないという意味です。その対偶として、見えないものは永遠であるということも、真ではないかとね。僕らは、影と影の合間の隙、無色透明に光の気配を感じることしかできなくて、太陽を直接見て、まぶしくて目を閉じたまぶたの裏にうごめく緑色の波紋に光の感触を得ることしかできなくて。だからこそ光は永遠となりえて、生命もまた永遠となりえるのではないかと。
暴力は人々に見える形として残酷を刻むけれども、思いやりや優しさ、愛情のようなものは、どこまでも形のない、見えないものです。それはある意味救われない、無神論に賛同する心地を提供してやまないけれども、見えないからこそ、信じるしかなくて、信じているからこそ、永遠となりえる。見ることができないからこそ、大切、大切だからこそ、見ることができないのだと、輪になって手(論理)を繋いで回る単純なお遊戯図。
暴力を振るわれて残った傷跡のように、思いやりを与えられて残る優跡がいつか人々に見えるようになったら、その人類はもうじきに滅んでしまうに違いありませんね。ありがたいことは、在り難い。それは計りづらいということでもあります。たやすく計れないと、ついいい加減に計ってしまいがちで、いい加減に計られたものは、その価値を不公平にし、総合的に損ねてしまう。この人の心遣いよりあの人の心遣いのほうがうれしいと、客観的指標として明示されたら、誰もおいそれと人に優しくなれなくなるのではないでしょうか。
ありがたいことは、在り難い。在り難いからこそ、ありがとう。計るんじゃない、そのままを感謝するわけです。
「光を、ありがとう」 いつも見当はずれの方角を向いてしまうことになるけれども、微笑んでゆきたい。第三者同士であればちゃんと見えるのに、自分に直接向けられるとなかなか見えない、ありそでなさそな大切な貴方たちよ。