DEATH NOTE O.S.T.2

DEATH NOTE オリジナル・サウンドトラックII

DEATH NOTE オリジナル・サウンドトラックII

今回のサントラは、前半が平野義久のクラシカル編で、後半がタニウチヒデキのロック編。クラシカル編は、前回サントラの別アレンジバージョンをいくつかと、初出のナンバーで構成。M1「Kyrie II」は、宗教曲に馴染んでいた者としてはなかなか捨て置けない(昔の話ですけど)。こういう真剣な宗教曲を真剣に使用できるアニメ作品は、やっぱり嬉しいです。M2「Semblance of Dualism」はヒステリックなまでに緊迫感をぶん殴る、圧倒的で鳥肌級のナンバー。M7「Air」は穏やかな、のどかと言ってもいい無伴奏合唱曲ながら、和音進行にところどころ不穏を感じてしまうのは、考えすぎでしょうか。M8「Light Lights up Light for piano」は、今まで聴いたこともないような、慈愛に満ちた気品あるピアノソロ曲。ピアノ自体、この作品のサントラでは全く初めてではないでしょうか。大作曲家が晩年最愛の女性のために書き上げたような、ひたすら甘美で感傷的な小品。
そしてロック編。無駄な音と余計な旋律を極力省いた、繰り返される単純な音形と、リズムと、ロックの手触りにストイックなまでに集約された、無機質で結果論の音(楽)。情景音楽というより、そう、皮膚音楽。皮膚だから耳に優しいメロディは意味がなく、いっさい思想や解釈も受け付けやしない。だから、暫定的・便宜的で主観的(つまり『いい加減』)な僕の言葉なんて、入り込む隙間も表現する資格もありはしないのですよ。ただまあ、「ミサのテーマA・B」は和みましたけど。
フィーリングとは、思想や解釈を超越した、精神そのものですねえ……。音楽は楽しむためにあるのと同じように、感じるためにあるのだということ。どうりで、野菜に音楽を聞かせたりすることに意味を見出せるわけだ。感じたことを、言葉にするのは、結局のところ、言葉にするように、感じているよう錯覚させようとしている、後付けの解釈定義の類に過ぎなくて。あまり意味がないというよりも、感じることに枠をはめて後の自由を効かなくするだけのような気がしてきました。感じるようにしか感じられないのではなく、感じるように感じるべきだということであって、そこに言葉による解釈や定義は、いっさい必要がない。
まあ、楽しむことに関しては、言葉によるそれがまだ必要で有効な領域であることを、確信しているわけだけれど。そうじゃなきゃねえ、音楽の感想なんて書きゃしないよって。僕はこんなところでいったい何を書いているんだろう……。