藤原伊織 てのひらの闇

てのひらの闇 (文春文庫)

てのひらの闇 (文春文庫)

僕は「手のひらの〜」という表現が好きなんですね。それは僕がまだ青くて春だった頃、岩男潤子の「手のひらの宇宙」というアニソンに深く濃く感銘を受けたからで、だからどうした言われれば何とも反論できないくらい、「手のひらの〜」という表現ただそれだけで、僕はその作品なり対象に好感と親しみを抱いてしまうと、そういうわけです。
橋本図書館でふらふらと書架を辿っていたときに、たまたま見かけて、手にとって、読んでみたのが、この「てのひらの闇」という小説でした。推理モノ? ハードボイルド? 僕にとってはどちらも全くの初心者で、そもそもこの藤原伊織という人物が男性か、女性か、年齢すら氏の訃報に接するまでは定かでなかったほどです。
劇中のとある人物は、自身にとってたいせつな女性の、重大で、秘匿されるべき秘密を、本人に知らせないために、自ら死を選びます。しかし僕にはこれが無意味なことに思えてなりませんでした。だってその秘密は、彼だけが握っているのではなく、他にも何人かが知っていたことで(だから主人公も知りえた)、だから本人に露見することを完全に防ぐというのなら、他の知っている人間全てを亡き者にすべきじゃないですか。その後、捕まるか、自殺を選ぶかは本人の価値観によるもの、それはどうでもよいことです。
しかし彼は真っ先に死を選んだ。それを主人公は、高潔だと、純粋な男だと表現します。それは賞賛であり、同時に非難であり、そして羨望でもあったのです。自らの呪われた出自と、過去の罪業を背負い、企業社会の汚濁に塗れ、全てを放り投げるように退職する決意を固めた主人公は、しかし職場を去るその日に、高潔な、純粋な光をそこに見出したのではなかったか。非難すべき何があれ、社会的に咎められる何があれ、矛盾や無意味であったとしても、自身のうちにいっさい揺るぎのない、自らの精神を預け拠って立つ信念のような、死を賭しても悔いのない覚悟があるということ、それこそが高潔さ、純粋さの完膚なき本質であって、受け入れるとか、背負って立つというのとは根本的に違う、「感謝する」。男の研ぎ澄まされて柔和なやさしさが、この小説に描かれていたことに今、気づいたのです。
自分が相手をどうこうするというでない、誰もが自身のてのひらに闇を染め、ある者は翻弄され、またある者は決断し、逃げようとしていた主人公は、徐徐に対峙していく。早春から桜散るのち頃までの、気まぐれにうつろう可憐な息吹が鮮やかに物語を撫で、やっぱり「手のひらの〜」という表現に間違いはないですね。
とはいっても、藤原伊織氏の死についてもっともらしくオチを付けるほど僕は人でなしではありません。せめて、たまたま通りすがった無知な一読者として、哀悼の意を送らせていただきたいと思います。