趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

平日のワイドショーや、週末のバラエティ番組を不用意に見ていると、秋葉原という街がよく取り上げられています。通りを行き来する若者にインタビューするという定番なものから、彼らのプロフィールやファッションセンスに関するコメンテーターたちのありきたりな感想、フィギュアやおでん缶メイド喫茶といったアキバ産業の取り扱うアイテムや職業人たちの、意外さと胡散臭さの混ざり合った紹介まで。それは、大量のゴミを自宅に散乱させ周囲に異臭を撒き散らす近所の困り者とか、公費をつぎ込んで無意味に豪華な施設の紹介と市民の憤りなど、ワイドショーの定番トピックと同列に取り扱われ、秋葉原という街とそこを謳歌するオタクに向けられる(他トピックと似たり寄ったりの)底意地の悪い関心について、それが予定調和であることは百も承知しているのに、僕はどうしても、目を背けずにはいられません。できることならチャンネルを変えてしまいたい。恥かしくて仕方がなくなるのです。
秋葉原なんて年に3回と訪れはしないし、自身、性質的にはともかく、実践的にはそれほどオタクではないと自認している、秋葉原にそれほど近くはない存在であるのに、なんというか、自分が好感を覚えている身近ななにか(例えば自分の卒業した学校か、好んでよく利用する店など)が、会ったばかりの見ず知らずの他人に、俗悪な存在として忌避されるのを目の当たりにしたときのような、居心地の悪さを感じてしまうのです。反論したり怒るのではなく、ただひたすら早く話を変えたくて仕方がなくなるというような。

 そうしたアニメ絵は、オタク趣味のイコンとして、オタクの個室の中に、あるいは渋谷や吉祥寺のような商業開発された街にあっては裏通りの専門店の中に、隠匿されるように存在してきた。(略)オタクたちは、広告代理店的に商業開発されたような街にあっては、心情的にはアウトサイダー、あるいはマイノリティであらざるを得なかった。店側も客側も、目立つ位置に出るのは抵抗があった。そのような彼らがパソコンに対する愛好を結節点に秋葉原という趣都を見出し、あたかも民族が自決しようとするようにそこへ集まるようになったのである。
 マイナーな人格の都市的な偏在という特殊な状況が、それまでなら隠されてきたような彼らの趣味を都市に露出させ、個室が表通りや公共空間と連続するという、都市空間の変質を引き起こしたのである。

なるほど。オタクにとっての共同主観的な個室が都市空間に露出したと考えれば、秋葉原特集に接することで生じる僕の身内的恥かしさにも納得がいきます。程度の差こそあれ、僕もしょせんオタクですもの。自室の壁に貼られているのと同じように(僕の部屋には貼られていないが)、店の入り口から店内に至るまで所狭しと張り巡らされ重ねられた美少女キャラのポスター、自室の床に無造作に積み上げられたエロゲーやアニメDVDのパッケージのように、オタクショップの入居するビルの表通りに面した窓には、階ごとの取扱商品の案内が折り重なるように表示されている。それはまさにオタクの個室そのものであって、それ以外のなにものでもないことに気づかされます。
誰しも、自分の部屋を他人に見せるのは恥かしいもの。あまつさえ嫌悪されていることを知れば、その居たたまれなさは途方もありません。しかし、一度嫌悪されてしまったらば、その生理を取り除くことはもはやできないので、もう開き直っていくしかありません。「僕の部屋はこんなだ。どうだすごいだろう」と、露悪的にコミュニケートしていくしか、やりようはなくなります。秋葉原の現在の状況は、つまりそういうことなんでしょう。開け放たれたその"個室"は、オタク自身から見てもあまりにひどい、みすぼらしくセンスもへったくりもないようなレイアウトや、インテリアと呼ぶのも業界団体に申し訳ない装飾性。そのカオスっぷりは、きっとどんなオタクのそれよりきっとひどい。
しかしだからこそ、どんなオタクでも親しみを覚えてしまう。「足の踏み場もねぇぞ」と文句を言いながらも結構くつろげてしまう友人の部屋のような。つまり同じ匂いをしているのです。それは例えば、出来の悪い主人公がカッコ悪くとも健気にヒロインにアタックする姿に共感してしまうのと似ています。「あんたのことをわかってるのは俺らプレイヤーだけだよ」と、僕らは、秋葉原という街の全身的なカッコ悪さに共感するプレイヤー、と思っていたらその実、秋葉原という街に攻略される(思ってもいなかった商品を買わされる)ヒロインだったというオチかもしれませんね。
高度経済成長期の当時隆盛を極めた家電市場はもはやかつての輝きを失い、あまつさえ郊外店にファミリー層を奪われ、「未来を喪った」秋葉原と、科学技術が人々に無限の夢を与え続けた時代の終焉とともに生を授かった、同じく「未来を喪った」僕らオタクたちは、パソコンという技術によって相結びつき、秋葉原という街は趣味の都として祭りあげられる。その内実は、手塚治虫が性的対象として意識化していった、アメリカ(上位)文化のディズニーアニメ・ヒロインを、かつて専門家だけのものだったパソコンを個人(パーソナル)のものとして征服することで、これを用い、彼女たちの今日的末裔を自分の嗜好に合うよう染めあげる、つまり性的・暴力的に征服することの悦びを堪能するということ。それら「オタク趣味の構造」とリンクし、現実の場所(サイト)として再構成された秋葉原。かつて電鉄系資本や行政が担っていた都市計画をまったく廃絶し、個人(オタク)とその趣味ムーブメントが街とその意味を征服し、コントロールする時代が訪れたのだと本書は主張します。
誇り高くも埃り臭い街、くしゃみをすればどこかで何かが崩れてきそうな街。けれども、「ほしのこえ」や「月姫」に見られるように(どっちも見てないけど)個人(同人)が商業主義を図らないまま剥き出しで先行し、流行が確定的と見るや商業(月姫の商業誌への漫画化)が追随し、遅れて政府(アニメ・ゲームは国が誇る知的財産・主要輸出産業)が枠組みを付与するという時代性とその構造は、コレクティブな自室に神聖的なまでに偏執する内向・閉鎖性と、テレビ画面やディスプレイ以外を意識する・関与する意思の希薄な非社会性という、オタクの性質を濃縮し拡散させながらあられもなく具現化し、発展を続ける秋葉原という街のありよう自体が、まさに予言したものではなかったか。喪われたかつての「未来」は、かたちと次元を変えて、今まさに秋葉原という街が体現しているのではないでしょうか。
人ひとりがなんとか通れる狭い階段をのぼる、降りてくる"仲間"に道を譲る、ふと目に入る美少女キャラクターのポスターは、発売日を派手に告知している。そんな、雑然としていて、剥き出しで、妙な匂いのするような未来が、秋葉原という街には確かに根付いているのです。明日の予測すらおぼつかないこのご時勢、幸せそうな家族が思い思いの電化製品を和気藹々と見て回る石丸電気的未来よりは、身の丈にあったこっちの未来のほうが、僕には好ましく感じられます。
好きなものを好きだと高らかに主張できる街があって、好きな作品や楽しみなイベントが毎週のように続く。たまには延期する作品もあるけれど、好きや楽しみを心から待ち望める時間を持つことは、未来を信じるということの実質的な構成要素になりうるのではないかと思うんですね。
「好きでいていい」と、秋葉原という街は全国の、いや全世界のオタクたちを認めてくれているのです。それが自分たちで作り出した人工物であり、シャボン玉のように作為的で脆い雰囲気に過ぎず、自作自演、言うなれば自室での自慰行為と大差ないのかもしれないけれど、エロゲーに嘘偽りなく感動することができるように、秋葉原によって救われているということもまた、事実なのです。つまり、秋葉原はもはや東京の一都市ではなく、僕らの《希望》そのものなのだと、月森は取ってつけたような青臭さで主張してみたり。