はんらんする身体

はんらんする身体

はんらんする身体

この論文集の中で、芹沢俊介が「萌え」についてささやかに持論を紹介していて、ちょっと関心をもちました。
氏曰く、「個人化の時代において、個々は自己領域として現れると」。それは「自他のあいだが大きく隔てられ、それゆえ個人にとってきわめて開放度の高い社会」、「だがその反面きわめて孤立感を抱きやすい、手ごたえのない希薄な状況」である。「自己領域内において、個々人はきわめて自由に振舞うことができ」、「世界は底なしの恣意性として作られている。どこまでいっても恣意性は恣意性を出ることはできない。このことの手ごたえのなさ(受け止め手の欠如)に個々はおびえる。ただただ自己を消費しているだけだという消耗感に見舞われるようになる」。だが「他者という手ごたえを得るには自己領域を出なくてはならない、つまり自己領域にあることの快楽を手放さなくてはならない。これも違った意味で苦痛である。苦痛であるだけでなく、不安でもあり、おびえでもあるだろう。自己領域を出ることには、かなりの決心とエネルギーを要するのだ」。
「このジレンマを踏まえつつ新たに編み出されたエロスのかたちが」「『萌え』ではないだろうか」。「自己領域内に自分以外の存在の身体性、あるいは自分以外の自己領域を取り込むことが模索され」、「エロスの対象なのに接近はできても触れたり融合したりすることをみずからに禁じている、このジレンマが不可侵の対象としての絶対領域であり、ひいては『萌え』というエロスのあり方の本質ではないか」というのです。
「萌え」といわれる対象(現象)を考えてみると、それはリアル(自己領域外)では実現不可能なものであることがほとんどであって、むしろ、無理矢理リアル(自己領域外)で実現させてみてもほとんどの場合萎えてしまうことも考え合わせて、「萌え」とはそもそも空気に触れると枯れてしまうグレイ・アッシュのような幻想花であり、萌えにしろエロスにしろ、それらに最適化された自己領域が個々人において周到に準備されていてこそ、各個の内面で初めて美しく咲きほこる。「萌え」という言葉ですら、発音するとそれはただの生々しい何かでしかない。ジレンマという発想は、最低限のリアルを考慮に入れているから生まれるものであり、自己領域を出ないうちは、あるいはインターネットや同人誌という"真空郵便"でやりとりしている間であれば、それは完成された自己領域(世界)を脅かしはしません。
いや、ジレンマという意味では、自己領域内で繰り広げられる「萌え」的現象あるいは人間像は、リアルでは実現不可能であることをいちいち承知しているからこそ、いや、実現不可能でなければそもそも「萌え」たりはしないというのが事の真相ではないかと考えます。「どこまでいっても恣意性は恣意性を出ることはできない」ことを逆手にとって、出ることができないのだからなんだってアリだろうという開き直りのもと、犯罪であるとか、人倫の道に外れるとか、そういう価値判断をいっさい蚊帳の外に置いて、愉快とか、気持ちがいいということはどういったことかというテーマで日々究明していった過程に、「萌え」が咲き、「エロス」が薫っているだけに過ぎないと思うのです。分類不能の感性や感覚を内蔵した個々人の自己領域・世界のオリジナリティが蓋然的に、「萌え」「エロス」と呼ばれる一般表象を暫定的に規定しているという話。
ないことをあるようにする、できないことをできるようにする、それが「萌え」の基本構造であって、あるようになったこと・できるようになったことがリアルに漏れ出したりしないのは、ないことや、できないということが、リアル(あえて自己領域外といおう)において等身大でとっくに了解している事柄だからでしょう。むしろ、「もしかしたらあるかもしれない」「頑張ればできるようになるかもしれない」と当人が思えるような不安定な事柄は、自己領域内でちゃんと「萌え」られないのではないかと思うんですね。
だから、「エロスの対象なのに接近はできても触れたり融合したりすることをみずからに禁じている」という、本当はしたい・できるのだけれども敢えて禁じている甲斐性ある事態ではなくて、どうせできないのだからリアリティある中途半端にしないで、突き抜けてありえない状況で、全くありえない人々と関係とを作り出して、非現実的な感性と感覚をいかに豊かに抽出できるかという実験を試みている、そんな状況こそが自己領域の営みだと思うんですね。環境と自身において確定された現実(実現不可能性)という石材によって、自己領域という城は築かれる。天守閣にわがままな姫を住まわせて、僕らは自己世界の風になる。
自己領域の城が揺らぐとするならば、それは確定していたはずの現実、ないはずのものがありそうだったり、できるはずのないことができるかもしれなかったりする場合であり、近日喪失予定のまま保留していた自己(アイデンティティと呼べるような諸要素)が、偶然とめぐりあわせと奇跡によって確立してしまったとき、祝福軍によって外堀や櫓を次々破壊されてしまうことでしょう。それが幸運なことなのか、不運なことなのかは僕にはわからないけれど。
自身にとっての現実、統合性、存在との抜き差しならない距離感、「いるのにいない」という自己喪失感、その恐怖。それら現今の若者達にすくう心理傾向を予防するために、「そもそもいないことになっている」という"設定"が、ある意味オタクにとっての根本原理なのだと僕も思います。設定とはいえ、自分がいないからこそ無尽蔵の「萌え」と「エロス」を自己領域内にて精製できるというのに、実際それらのないリアルに「いる」・自分を在らしめることがそれほど重要なのかと僕は逆に問いたい。
同人誌や萌えアイテムを不都合なく獲得できるリアルを維持し続けることができていれば(財布にお金が入っていて、店員からアイテムを受け取る手を持っていれば)、僕は少なくとも自身を統合することはできると思います。コミケで財布に帰りの電車賃しか残っていないことに気づいたとき、どうしようもなく現実を感じるし、エロゲーをプレイしているときにディスプレイに映る自分の顔を認識することくらい、自らの存在を(疎ましく)体験することはありません。
「自分にとっての生きるうえでのよすが」「この人がいるということ、このものがあるということによって自分という存在が『今ここにいる』」「受け止められているという感覚、受けとめられている分だけ自分が今ここにいるという感覚」を、「デジタル身体」である以上、「大切なもの」をデジタルの存在、いわゆる二次元美少女と彼女たちが"生きている"ライトな世界に見出したとしても、それは生温かくも微笑ましい"生"のありようではないかと、僕は思っているんですけどね。世間に肯定されようが、されまいとね。