選択し、やり直す。青春とロマンを謳う四重奏曲――『ひまわり』評

 ひまわり

 ――選択するということはどういうことなのか。
 この作品は通常のADVゲームとして主人公に場面場面で選択を迫るということを通じ、ひとつの重要なテーマとしてプレイヤーに、人生において選択するということの意味を実直に問いかけているように思えてなりませんでした。
 この作品にはエンディングが20以上あり、バッドエンドのほとんどは、たったひとつの選択肢を間違えただけで直行するものというシビアなもの。
 ――1周目。
 まだ全てのヒロインも出揃わないうちから、いきなりバッドエンドになってしまったんですね。もう「そりゃないよー」って感じ。
 恋愛ADVは、選択肢を選ぶことでヒロインの主人公に対する好感度を上げることをほぼ唯一のゲーム性としているもので、この場合好感度を上げるということと、関心を寄せるということはほぼ同義です。だから、特定のヒロインに関心がないかのようにわざわざ振舞わせる(選択する)のは、まさに自滅行為に他なりません。
 恋愛ADVのプレイヤーに課せられた宿命、あるいは経験則をこの作品にも適用し、ヒロインの素性に関心を示し彼女に手を伸ばすという選択肢を選んだ途端、主人公は唐突に、何の理由も分からず、何者かすらわからない相手に殺されてしまったのです。
 この不条理ともいえる意図によって、ふだんは軽視されがちな恋愛ADVにおける選択肢の意味が俄然、強烈な重みを持つことになりました。「あれでバッドエンド直行か…これは気が弛めないな」と、僕は常に選択肢の挿入を意識(予測)しながら、注意深くテキストを読み進めていくことになります。
 そういった心理状況が、落ち着いた形容と簡潔な思慮によって無駄なくシンプルに描写されたテキストということもあり、物語や登場人物に尚のこと感情移入しやすくなっていたのかもしれませんね。
 もちろん、挿入される選択肢が全てシビアというわけではなくて、ときにギャグだったりどれを選んでも変わらないフェイクの選択肢もあって。それはプレイヤーの注意を嘲笑うかのような小癪さで、ちょっと悔しい。
 ――そして2周目。
 前周でシビアを誇った選択肢が、しかし今回はまったく出てこなくなります。ひたすらクリック、ただ読み進めてゆくだけ。しかも内容的に辛く厳しい、そしてあまりにも報われない物語は、僕が心酔してやまない「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」を彷彿とさせます。
 あの作品は、ADVゲームであるのに選択肢をいっさい挿入しないという、非ゲーム性というまさに"死"を賭したゲーム性を提起することによって、物語の悲劇性をきわめて明確な形で、痛切にプレイヤーへ印象づけることに成功しました。
 しかしそれはプレイヤーにとってあまりに救われない話です。不条理だと言ってもいい。ゲームなのにゲームではなくてしかも辛い思いをしなければならないなんて、よく考えるとひどい話じゃないですか。

 「もしあたしが小説か何かの主人公なら、もっとドラマチックな展開が待っていただろう。だけど(略)あたしは単なる脇役に過ぎなかった。彼らに選択肢はあっても、あたしにはない。ただただ、受け手に回るだけ」

 2周目の主人公はこう語ります。しかしこの「ひまわり」という作品は、「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」と違い、やさしい。なぜなら作品は彼女に、1回だけ、選択する機会を与えたのです。

 「ずっと、あたしには選択肢なんか無いんだと思ってた。――だけどそれは違う」

「あたしは、この選択を一生後悔するんでしょうね。――でもね、後悔してもいいの。これがあいつの望みだから…あたしはそれを叶えるだけよ」

 選択するということの責任と後悔をこの章の主人公はまさに体現し、僕も前章で少なからず味わった。しかしそれでも自分の人生の行く先を、正しいか正しくないかではなく自由に選ぶことができるということのかけがえのなさは、このとき既にプレイヤーも共有するところなのです。
 それはそれで素敵なメッセージ。
 けれどこの作品が誠に真摯で悪辣なのは、「この選択を一生後悔する」ということを3周目においてふたたび追求し、揺るぎなく後悔し続けるよう迫ってくるところです。かつて選択したことに後悔してきたのをやめて、新たな場面で選び直した気になって別の幸せを今手に入れようとしている、その裏切りを痛烈に糾弾するのです。
 果たしてそれはいったい誰に向けられた言葉でしょうか。彼女たちの修羅場を、プレイヤーは他人事のようにのんきに鑑賞していていられるでしょうか。
 バッドエンドどころかシステムメニューに常時、「前の選択肢まで戻る」ことができるようにしておいてこの作品は、直後の展開が気に入らなければ戻って別の選択肢を選び直し、図らずも陥ってしまったバッドエンドをなかったことにして、ぬけぬけと別の幸せを手に入れて悦に入るプレイヤーの心のありようを批判、あるいは意識するよう仕向けているように思えてなりません。
 ――それなのに4周目。
 最後にクリアすべく差配されたヒロインは、とあるシーン、2つの選択肢から1つを選び出そうとする主人公、プレイヤーがどちらを選ぼうとも彼女は、同じようにこう言い放つのです。

 「そんなの、どっちもやればいいじゃない」

 と……。

「人生は一度きりだから…だから、何かを切り捨てていくような生き方だと、最期に絶対後悔すると思う。出来ることは全部やらなきゃ…ね?」

 これには意表を突かれました。
 あれほど執着していた選択肢というものを、彼女はなんともあっけらかんと否定してしまう、それはまったくロクでもない理想論。
 そういう意味でこの章はまさに理想的を地で行く、まるで夢かおまけシナリオのようですらあります。何しろ、これまで主人公やヒロインたちのことを激しく憎み、彼らに目の仇にされてきた人物が、まるで虚仮威しの皮をあっさり脱ぎ捨ててしまったかのように、微笑ましく振る舞い始めるのですから。
 気がつけば登場人物がみな古くからの仲間のように打ち解け、それほど難しい選択肢を差し挟むことなく主人公の恋愛も成就するという、安直なストーリー。まさに大団円と呼ぶに相応しいエンディングです。
 ――選択をしない、つまり全てを選ぶという理想。
 考えるまでもなく、高校生風情がロケットで宇宙に行こうなどというのは、しょせんロマンであり、理想にすぎません。難解な構造計算やプログラミング、素材や部品などを調達するための予算も多大で、些細なミスで墜落させてしまうたびに最初から作り直し。その困難は筆舌に尽くしがたく、注がれるエネルギーも並々ならぬことでしょう。
 何しろそれは延々とやり直すということなのですから。
 当然、劇中において宇宙部が自前のロケットで月にたどり着くことはできません。しかしひまわり21号、22号と何度もロケット発射を繰り返し、やり直し続けることで、彼らはこれ以上ないというほど居心地の良い場所と素晴らしい仲間を手に入れました。
 ひるがえって、プレイを繰り返し、何度も選択し直すことでプレイヤーもまた、これ以上ないというほど居心地の良い結末と曇りのない救いを手に入れたのではなかったでしょうか。
  部長と主人公がそうだったように、プレイヤーもまた気力を注いでいる。選択を迫られるに際して文脈を適切に判断し、既出の情報を整理し未来を予測し、何より主人公・ヒロインの気持ちを推し量るという、それなりの精神エネルギーを投入し、ヒロインとのハッピーエンド(ロマン)を追いかけているのです。
 夢を追い求める少年少女の青春群像は、視点を変えればそれ自体がロマンであり、理想にほかなりません。それがまさに4周目、最後のストーリーの本質でした。
 ということは、プレイヤーにとってのロマン、理想のありようもまた同じなのかもしれませんね。エンディングの分類がNORMAL ENDとBAD ENDだけでHAPPY ENDが見当たらないのは、ロリっ娘宇宙人との同棲生活こそがHAPPYで、それはENDLESSだということが言いたいのかもしれません。
 素晴らしいご見識! 同じロリコンとして激しく深く共感します。
 ――選択するということ。
 バッドエンドという明らかな失敗の経験、「このルートで良かったんだろうか」という不安を伴い、仮想的な後悔と二次元上の責任を積み重ねながら、既読スキップを駆使しヒロイン別のシナリオを次々に読み進めているときの心理を振り返ると、それはつまり、やり直しているんだということにプレイヤーは気づかされます。
 ――やり直すということがどういうことなのか。
 指定された順序でプレイを繰り返し読み解いてゆく物語、登場人物たちの行動原理と譲れない願い、ADVゲームにおける選択肢というゲーム性は、同時にプレイヤーへと接続される経路。「ひまわり」という作品は、そうして奏でられる"四重奏"によって、それが過去と未来を"繋ぎ直す"意志なのだということをプレイヤーに響かせようとしているのではないでしょうか。
 選択し、やり直すということ。その難しさと大切さの"具体例"をこの作品は、ゲームらしく多面・多層的に提示している。他作品ではよくある、言説によって一般論を一面的に示し一方的に放り投げてくるのではないから、実に真摯に感じられ、良い作品である以上に好ましいのです。作品というより、その雰囲気が。

 僕はこれから、人生の節々で、様々な選択をすることになるだろう。だけどその選択に、正解も間違いもない。大事なのは――怖れないことだ。恐れて、自分の世界に閉じこもってしまうことが、何よりも愚かなことだった――。

 ――そして、物語のいちばん最初に出会うことになる少女。
 主人公によって救われること叶わず、それぞれの物語によって"バラバラ"にされてきた彼女がようやく救われるのは、劇中選択の結果として獲得される1ルートではなく、全てのエンディングを経た後、「extra」に追加される36番目、最後の"Tips"そのたったひとかけらだというのは、プレイヤーとして、ひとりの人間としてとても救われることだと思うのです。
 その幸せはとても謙虚で鮮やか、ある選択をすることで即至ってしまったようなバッドエンドすら意味があると、やさしく受け入れてくれるものです。主人公に「回り道なんてどこにもなかった」と語らせるのみならず、こうしてシステムによっても裏づけしている。まったくその思いやりは抜け目がありません。
 そんな抜け目ない作品だからとはいえ、日向陽一の父親が取り組んでいた研究の本当の成功例はプレイヤーという存在なんだとか、「Ever17」を思わせるメタ性まで嗅ぎ取ってしまうのはやりすぎでしょうけどね。
 「ひまわり」――示唆に富んだ興味のつきない作品です。これで税込み1365円の同人ゲームだというんだから、もう「素晴らしい!!」「ありがとう!!」と諸手を上げて万歳するしか報いようがありませんよ。ねえ。
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