声優の演技と、スキップできるけどしないプレイヤー

 先日「ひまわり」をプレイして、この作品は同人作品なのでさすがに入ってなかったんですけどね、ギャルゲーにおける「声優の演技」についてちょっと思うところがありまして。取りとめもなく書いてみようかと思います。
 僕は以前から、ギャルゲーではもうたいていの作品に吹き込まれている声優の演技を、プレイヤーとしてどう扱ったらいいものか迷ってしまうときがありました。まあ、このブログではよくある、どうでもいいことに過ぎないんですけど。
 テキストを読み進めていくことに関しては、1行(といえばいいのかな、ウィンドウの中の1表示)を読み終わればクリックして次の行に進む、ごく単純で悩むこともないんですが、しかし声優の演技は必ずしもプレイヤーの読解スピードと連動していないじゃないですか。
 ほとんどの場合、プレイヤーの読解スピードのほうが声優のしゃべるスピードより早く、プレイヤーは声優の演技が終わるのを待ってクリックすることになります。語尾が「ですぅ」とかの舌っ足らず系天然ヒロインの場合など、恐ろしいくらい待たされます。もう勘弁してくれって感じです。
 待たされるのが嫌なら、テキスト表示を声優の演技と連動させるモードに変更すればいいんですが、これはまどろっこしくてもっと嫌(ぉぃ)。というか、テキストを自分の読解スピードより遅い表示で読まされるというのは、中に固形物が詰まったストローを吸うみたいに、思いのほかストレスが溜まるものです。
 それに演技とはいっても、ヒロインが話す内容はすべて、感情の込められた、主人公(プレイヤー)が心して聞かなければ(鑑賞しなければ)ならない重要なものというわけではなく、単なる事実の確認、主人公の知らない事情に関する状況説明、一見無駄な受け答え、それらの淡々とした、わざわざ音声として聞くまでもない演技のほうが、むしろ割合としては大きいんじゃないかと僕などは思ってしまいます。
 そもそもコミュニケーションとは大半の無駄で構成されいるのに、自意識過剰ゆえの理屈っぽさ、重箱の隅を補強することがクオリティと擬(なぞら)えられているこの世界。無駄っぽいことすらおいそれと粗末にできません。
 ここでプレイヤーの意識の指先は瞬間的に、他愛のないジレンマに引っ掛かることになるのですよ。
 それは、この行のテキストは全て読み終え、それがいちいち声優の演技で"再説明"されるほどの内容でもないということがわかっていて、本音をいえばすぐにスキップしたいんだけど、でも登場するヒロイン全てのストーリー・エンディングをコンプリートすることが求められる該ジャンル、声優の演技もことごとく鑑賞しなければコンプリートしたことにはならないんじゃないか――と。
 そんなおたくらしい潔癖さを求める気質を底流に、ギャルゲーというものが声優の演技もしくは彼女たちという存在を、アニメなどよりいっそう近しい存在に感じられるとしたら、それは彼女たちの演技をクリックひとつで飛ばせる(プレイヤーの意のままに操れる=プレイヤーが所有している)からだとして、それは、そうであるがために強い愛着の生じた声優の演技を中途で切り上げてしまうということに感じる申し訳なさと不可分の、決して相容れない関係・心理状況にあると説明できます。
 声優の演技をスキップできるからこそ、あえてスキップしないことで、プレイヤーは作品へと積極的に没入"させられてゆく"。感情移入の問題を、脚本家個人の表現技巧や演出センス、あるいはプレイヤー各々の相性といういかにも水っぽい領域に落とし込むのではなく、そういう不可避でシステマティックな感情移入経路の存在も指摘されていいでしょう。ゲームであるならばね。
 ところが、急展開する物語や"実用"に供されない濡れ場において、ヒロインによる冗長な状況説明や意味のない嬌声でもきちんと鑑賞"しなければならない"という規範めいた意識が、物語・キャラクターに「没入しているんだ」という三分の一意識的なプレイヤーテンションを、むしろ減退させる場合もあるのではないかと、僕はそこはかとなく感じてもいるのです。
 この行の声優の演技をすべて聞いていたら僕はきっと醒めてしまうだろうな、というのがなんとなくわかってしまい、醒めたくないからスキップをしたいんだという、些末な欲求。
 それは、なんだか落ち着かない格好を思わず正したくなる生理に似て、けれどついスキップしてしまったがために、のちのコンプリート(達成)感がごく微かに損なわれてしまったかもしれない、初回プレイは1回しかないという意味でかけがえのない機会において、それを聞かなかったがために作品が提供する完璧な楽しさ、100%の感動が得られなかったかもしれないと、ひとたび思ってしまったら、それはもう取り返しがつかないこと。
 これは果たして、プレイヤーのプレイの仕方が悪かったのでしょうか、我慢が足らなかったのだと忸怩たる思いをするほかない事柄なのでしょうか。まあ、こんなにも矮小な問題は、問題にすらされず「作品が悪い」「僕とは合わなかった」という感想に含まれ、済まされるとは思うんですけど。そもそも完璧な楽しさ、100%の感動なんて"理論値"としてすら算出不可能です。
 というか僕は、声優の演技をプレイヤーは自由にスキップできるけれどスキップしないことで最低限の感情移入が確保されていると指摘しておきながら、声優の演技はむしろスキップできないほうがスッキリしていて望ましいと考えてもいるのです。
 それは、プレイヤーが声優の演技を自由にスキップできることで得られるシステム的な利点は、スキップできないことで開闢される表現可能性の足元にも及ばないと、なんとなく感じているからです。
 声優の演技をスキップできなくする、プレイヤーがそうしなくても良いようにするには、プレイヤーの読解スピードと声優の演技を完全に連動させなければならず、そのためには、映画の字幕のように1頁に表示するセンテンスをごく短くするか、さもなければ声優の演技とテキスト表示のどちらか一方を削るしかありません。
 声優の演技を削るということは、無難だし魅力的ではありますがこのエントリーの内容とするところではないので、テキスト表示を削ることの可能性ついて考えてみたいと思います。
 ヒロインの演技にテキスト表示が付随しないとなると、プレイヤーは耳で聞いて理解するしかないのだから、制作者側がプレイヤーに理解してもらいたいと思うならば、その表現内容からこけおどしの理屈っぽさや薀蓄めいた難解さは封印されることでしょう。
 「あー」とか「えっと」といった意味のない応答句やつっかえ・どもりもごく自然に表現できるし、そもそも聞き言葉によるコミュニケーションは恋愛表現にとって大前提であったはずです。
 また、ヒロイン同士、男友達などを含めた主人公以外の登場人物同士のやりとりを、プレイヤーの操作(クリック)を挟まず進めることができるならば、「間」を表現することが叶います。従来の、いかにもわざとらしく挿入される強制頁送りパートではなく、かの名作「トゥルーラブストーリー2」の下校モードで、CD読み込み時間を逆手に取って実現した恋愛的「間」の創造、そもそも言葉によらないコミュニケーションは恋愛表現にとって大本命であったはずです。
 さらには、ヒロイン同士のやりとりを、従来のようにそれぞれ別々に単独で収録する(それは「気持ちのこもった朗読」に過ぎません)のではなく、一部の細切れなものとはいえアニメのアフレコのように実際のやり取りとして収録することができれば、演技のクオリティはかなり高まることでしょう。これは同時に、タイミングのあった口パクを実現することにもつながります。
 そうして出来上がってくるものとは、ヒロインが喋っているときはウィンドウが自動的に消え、当然全身のあらわれた彼女たちは句読点ごと、文脈に応じて姿勢や表情を刻々と変化させる、ごく当たり前のコミュニケーションの臨場感です。
 そのうえで、主人公のセリフは画面下部に設置された字幕か、その都度再表示されるウィンドウに掲載され、情景描写や内面描写は、どうせ時間は止まっていることになっているのだから、全画面表示にしていくらでも記述していけばいいわけです。
 もちろん、ヒロインたちの"止まらない"やりとりで聞き取れなかった部分や、テキストとして読みたい場合は、バックログでセリフごと再生できるのが望ましいし、今回の主張と矛盾するようですが、演技に完全連動した字幕(ごく短いセンテンス)を表示できるモードを用意してもいい。
 ――改めていうことでもないけれど、これらは素人に過ぎない僕が勝手に妄想したことです。プロの方にしてみれば冷笑の対象であること疑いありません。けれど、声優の演技が入るなら入るなりに、それを生かしたゲーム性、ゲームデザイン、仕様変更が図られてしかるべきだということは、きっと間違ってはいないと思います。というか、思いたい。
 声優の演技のない「ひまわり」をプレイしていて、そのゲームシステムが、演技のないことに適した、優秀なものであるということをしみじみ思うにつけ、それが、声優の演技がつく一般のギャルゲーとまるで変わらないものであるということに、納得できない思いを抱いてしまったのですよ。
 声優の演技がない作品のゲームシステムは、「ひまわり」という同人作品をプレイしても分かるとおり、既に完成され一般化しているとしても、声優の演技がある作品のゲームシステムは開発すらされていないのではないでしょうか。
 声優の演技というものは、テキストのそれとは比べ物にならないくらい生身を感じさせるものであるからこそ、それを生かすための開発は、無限の拡がりと創造の許容量を持つものだと僕は信じています。
 いつまでも、"ずいぶん"気持ちのこもった朗読付きの電脳絵本というんじゃ、寂しすぎるでょ。もちろん、そういった意欲的な試みのなされた画期的な作品をただ僕が知らないだけなのかもしれませんが…。