テスト期間というカレの人生、かけがえのないまがいモノ

 主人公は、感情というものに対して馬鹿らしいほどに素直であり、愚直なまでに謙虚である。この主人公の人となりは劇中を通して変わる事がない(それはベッドの上でも)、この点が、彼の最大の魅力であり、僕にとっては純粋に羨ましく、共感できるというのではなくむしろ共感したい、そういう願望すら抱かせるのである。

 実験体としての主人公がテストとして学園に編入されることになるその目的が、「感情を認識すること」である以上、その萌芽ともいうべき微細な心理作用に対してひとしずくも洩らすことなく捉えようとし、その意味するところ(正体)が全くわからない以上、とりあえず、そのありのままを見ようとする、そのことが主人公の人となりの根源であるのだから、彼の人となりの大部分はシステム側の要因であり、また別の意味で"人となり"とはいえないのかもしれないが。

 自分の感情に素直であること、これは非常に難しい。人はときに自らの感情を都合よく解釈し、またときには卑屈に捉え、感情を歪めて認識してしまいがちである。

 自分の感情に謙虚であること、これも非常に難しい。人はときに自らの感情が世界の中心であるかのように錯覚し、自己中心的に暴走してしまい周りの人や、自分の大切な人を傷つけてしまうことがある。

 確かに主人公には、感情を認識できず、情緒や感性を理解することができないために普通の人間には考えられないような不器用さや、無遠慮さを示し相手との円滑なコミュニケーションを取ることができない場合もあるが、その人となりの根本にある素直さ・謙虚さが彼の言動からあられもなく感じられるのだから、ヒロインは惹かれていくのではないだろうか。ヒロインが主人公のためにお弁当を作ってきてもその意味を察することはできないけれども、「一緒にいることが主でどこに行くかは従に過ぎない」といった恥ずかしいセリフを恥ずかしげもなく吐き、無用の気を使うことなくヒロインと一緒に楽しむことのできる、そういったチグハグな子供っぽさが彼の魅力なのだと僕は思う。と同時にその際立った純粋さが羨ましくなる点でもある。

 そういったものをひっくるめた上での主人公の人となりは、それでもシステムが予めプログラムした結果の表層に過ぎないのかもしれない。しかし感情というものは相手がいて初めて湧き上がるものである。相手がいるという現実は時空に漂う塵の数ほど膨大な可能性の、そのうちの1つとして成立していて、その現実を選択するのは本人である。つまり同じ現実は二度繰り返すことはできないし、同じ相手に同じ感情を抱くこともできない。現実は常に新しく、感情も常に新しくなっていくという意味で、それらはかけがえがない。かけがえのないものを持つことのできる"カレ"は、コピーだろうがまがいモノだろうが、「かけがえのない存在」になりえるのである。

 システムがこのテストを通して主人公に「感情を認識」させようと目論んだ事の本質は、つまり彼をして"人"とならせることであったのだ。そして、主人公が実験目的の成就によって得られたものは、自らの心の自由であり、エンディングを迎えてもなおシステムのくびきから逃れることができないのは、彼にとってのテスト期間が僕らにとっての人生を意味するものだからだ。なんとなくスッキリしないエンディングだと感じられるのは、僕らの人生もまだ中途であるから。主人公にとってテスト期間が僕らにとっての人生そのものだとするならば、そのテスト期間の延長はすなわち、人生の転機、心の自由の飛翔。

 僕らはいずれ死ぬであろうことを気に病んで毎日を生きているわけではない。主人公は当初、テスト期間がいつか終了することを常に念頭に入れ、自らの行動を規律し限定していたが、エピローグの彼はそれとは全く正反対のベクトルを向いていた。このことに考え至ったとき、この作品の終幕の本当の晴れ晴れしさを味わうことができるだろう。