プラネタリウムを出ていつも見ている夜空を眺めに行こう

 「これが人工的に作り出した夜空だとはとても信じられないほどの臨場感だった。ただ、現実にありえないほどの無数の光であるがゆえに、これは人工物なのだという事を認識させられてしまうのだが。」

 ヒロインとのデートで訪れたプラネタリウムについて、主人公はこう語る。これは、実験体としての主人公自身、(外見上)同年代の高校生にありえないほどの明晰な頭脳・論理的な思考と博識を持ちながら感情を理解することのできない彼の、オマージュである。完璧であるからこそ、親しみを感じられない。これに対し、いつも見ている星数の寂しい夜空、完全とは程遠いがゆえに親しみが感じられる。

 この作品は、主人公が『完全』から『不完全』になっていく、例えば『純水』から『飲料水』になっていく、『プラネタリウム』から出て『いつも見ている夜空』を眺める、つまり『合理的存在』から『不合理的存在』になっていく、そういう物語である。純水は飲みすぎると死んでしまうという。物語開幕当初(『純水』状態)の主人公を見ていると、「死んでしまう」というのが妙にしっくりきてしまう。おそらく「荻谷」という不純極まる友達ができなければ、主人公はヒロインと出会う前に「死んで」しまっていたのではないだろうか。社会的に、という意味で。

 人はときに、自分が不完全で堕落した存在に思われ、醜く、汚れている今の自分と比べ、無邪気で純真だった子供の頃を憧れるように懐かしく思ったりする。しかし子供時分において、自らの堕落した姿、醜く、汚れた状態を想像することはできない。年をとることによってどうしようもなく心に染み付いてしまうそれらの不純物を通してしか、「本当の美しいもの」を見つけることができないのだ。主人公の内面には最初から感情というものがあった。それならばどうして認識することができなかったのか。それは、彼があまりにも『完全』であり、『合理的存在』であったため。感情という「本当の美しいもの」は、自らの心に不純物を取り込まなければ見つけ出すことができないのだ。

 プレイヤーは、そしてヒロインは主人公の心の器に注ぎ込んでいく、恋という不純物を、愛すべき不合理を。そうして僕らはひとりの"人"を誕生させる、『不完全』であるからこそ個性があり、『不合理』であるからこそ愛し合う、そんじょそこらにいるような人間を。

 もしかしたら「TALK to TALK」という作品自体が、このテーマの壮大なオマージュなのかもしれない。無数の誤字脱字、音声・グラフィックとのミスマッチ、CG表示の不具合にイベント丸ごとすっ飛ばしといった『不完全』さ。Windows2000対応と謳っているにもかかわらずエラー落ちし、修正パッチファイルも残さずメーカー自体がこの世から消えてるという『不合理』(というか不条理)さ。この作品のテーマに沿った形で、個性ある『不完全』さをプログラムにわざと仕組み、致命的な『不合理』によってプレイヤーの皆さんに「TALK to TALK」という作品を愛してもらいたい、そんな製作者のメッセージが込められているのかもしれない。

 たとえそうだとしたら、僕は、魂の叫びをあげることになるだろう…。

 「責任者出てこーーーーいっ!!」