主人公の視点とプレイヤーの視点

 そういえば昔、「EVE The Lost One」という作品があった。当時アドベンチャーゲームの傑作として評価の高かった「EVE burst error」の続編として期待の大きかった作品だったのだけれど、いざ発売されてみると散々な評価だった(当時は)。でも僕はこの作品がかなり気に入っていた。というより僕はこの作品の、とあるシーンに特別な感慨を抱いた。それは主人公の1人である男性が、物語の終盤、世の中の全てが嫌になり、ついに、それまで疑うべくもなく常識的に主人公(この男性)の視点=プレイヤーの視点であった、その僕らプレイヤーのゲーム的介入を拒絶し、プレイヤーの視点とその存在を放逐してしまったのだ。プレイヤーとの同一性を外れてさまよい歩く彼と、物語上の1人のキャラクターとなって彼を探し回るプレイヤー。そして再会する2人(?)は、ゲーム的な常識によってでない、自らの意志として再び主人公=プレイヤーという同一性を取り戻していく。僕はこの思いがけない(というより反則的な)演出に深い衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。

 また、同じくらい昔、「Prismaticallization」という作品があった。僕が当時から今も変わらず信奉しているギャルゲー作品の金字塔であるのだが(詳しくはリンク先の自分の記述に譲る)、その作品において、ただボタンを押して頁をめくるだけの1週目のプレイを終え、2週目に入ったとき初めてプレイヤーはこの作品における最初のゲーム的介入を果たす。が、そのことに対して主人公は違和感を覚え、自らの体の変調として捉えてしまう。主人公によるプレイヤー存在への懐疑事件をきっかけとして、「Prismaticallization」という作品はプレイヤーの視点とその存在が、主人公との同一性を維持しつつもそれらを包含するゲームシステム自体の操者として、超越的にゲーム世界を俯瞰し、ゲームシステムと同一性を持つにいたる極めて特異な作品であることが判明していった。

 時代はさらに遡り、僕が初めてプレイしたRPGドラゴンクエスト」である。このゲームで主人公である勇者は冒険の最中に意味のある言葉を一切しゃべる事はなかったはずだ(確か)。冒険(ゲーム)の間、主人公がプレイヤー自身であることを僕らは感覚的に疑いもしなかった。しかし竜王との決戦に勝利し、王城に凱旋した勇者は、王に国を譲られようとしたときに初めて意味のある言葉をしゃべる。そのとき既に万感の渦の只中にいたプレイヤーは主人公である彼の発言に、その内容以上に言葉をしゃべった事自体に衝撃を覚える。なぜ最後になって主人公はプレイヤーとの親密な同一関係を放棄して自らの意志で言葉を発したのか。それはこのゲームが終わるから。この物語のこれからの未来は(少なくともこ作品においては)プレイヤーの与り知らぬ事になるから。勇者のあの言葉は、これからはプレイヤーのゲーム的介入なしで、勇者自身の力で未来を紡いでいく意思表示であり、僕らプレイヤーに対する別れの言葉でもあったのだ。エンディングテーマの冒頭のファンファーレは、勇者とローラ姫を祝福するものであると同時に、僕らプレイヤーに送るゲーム作品からの感謝の気持ちであったのだ。