猫と猫屋敷と猫探偵

 国ざかいに広がる大きな森のなかに、たいそう立派な館が建っていました。
 この森の大半を治めているその館の持ち主は、この国のうちでも指折りの資産家でしたが、既に亡く、いまこの館に「人」は住んでいません。
 この森を猟場としている狩人たちはこの「無人」の館について、口々にこういいます。
 「猫屋敷」と。


 この森に足を踏み入れる男がひとり、いました。
 彼は探偵でした。まだ年若いながらもとても優秀で、これまでにいくつもの難事件を解決してきました。
 彼はある人物の依頼で、この森の中に建つという館の調査に向かっているのでした。
 森のきわに点在する集落の狩人に、その館までの行き方を教えてもらい、少なくない礼金を授けるとすぐさま彼は、その館を目指し森に入っていったのでした。


 若い探偵に館の調査を依頼したのは、館の持ち主であった資産家の親戚にあたる人物でした。
 親戚といっても、両の手の指を折らなければたどりつけないほどの遠縁でしたが、彼は親族であると言い張り、資産家が残した莫大な遺産を受け取る権利があるのだ、というのです。
 その人物のいうところによると、館の持ち主であった資産家は、初老のころ妻に先立たれ、中老のころ息子夫妻を相次いで亡くし、彼らが残した子、資産家にとっては孫にあたる男の子と、血のつながりのない幼い姉妹とともに、人里離れたその館で晩年を過ごしていました。
 そして、男の子が成人する年ごろになると、自らの余命いくばくかを悟った資産家は、自分が死んだら全ての資産を彼に継承させるといい出します。
 もちろん親類はいっせいに反対しました。そんな法外なことがあってたまるものかと。
 しかし資産家の決意はかたく、何度か話し合いましたがまったく埒があきません。
 やむなく親類が裁判に訴えようとした、その矢先、資産家は突然に死んでしまいます。
 彼らとのいさかいで心労がたまったのでしょう、館の寝室でぐっすりと眠るように、2度と目を覚まさなくなったのでした。
 親類たちは仕方なく、訴える相手を資産家からその孫に変更して裁判を起こそうと考えましたが、肝心の孫も、幼い姉妹も、資産家が死ぬのと時を同じくして館から姿を消してしまったのです。
 居室にある竹格子の揺り椅子の傍らで、寄り添うようにしてうずくまる、3匹の猫を残して。


 資産家の遺産をめぐる裁判は取り下げられ、館じゅうをくまなく探してみたものの、遺産自体、どこにも見つかりませんでした。銀行口座なども専門の者に探索させましたが、手がかりすらつかめません。
 親類たちはせめて、この館と所有地である森を売却しようと考えましたが、所有者は既に孫名義となっていて、しかもどういうわけか名義変更がききません。
 だいいち、このような国はずれのへんぴな森などたいして価値はありませんでしたし、それどころか、館や森の植生を維持するのに多くのお金がかかってしまうくらいなので(個人が所有する森林はきちんと維持しなければならないと法律で決められているのです)、親類の誰も積極的には関わろうとせず、資産家の遺産をめぐる騒動は静まってしまいました。


 しかし、人一倍欲深く、そして執念深いこの遠縁の人物がよくよく資産家個人について調べてみると、彼は生前に、国中の恵まれない子どもたちを援助するための財団を設立していました。
 その財団は資産家の死後も活動を続けていて、しかも理事長はあの消息不明の孫、そして、あろうことかすべての援助の発送元があの館の住所になっているというのです。
 そこで彼は若い探偵に、「自分の」大事な遺産を、恵まれない子どもたちに援助するなどという無意味なことに使ってこれ以上目減りさせないよう、あの屋敷に隠れているに違いない孫を急いで見つけ出し、あわよくば連れてくるよう依頼したのです。
 しかも、他の親戚にこの事情を知られると遺産の取り分が減ってしまうので、それを避けるためにも、ごく個人的なつきあいである彼に任せ、内密にことを運ぼうとたくらんだのでした。


 若い探偵は初めからこの仕事が乗り気ではありませんでした。
 そもそも依頼主の人物のことが彼は嫌いでした。しかし彼はこの依頼主からの頼みを断れない事情があったのです。
 彼がまだ駆け出しの探偵だった頃、ある依頼をしくじってしまったことがあって、そのときの依頼主がこの人物でした。
 この人物は、それ以来、まるで蝿でも追い払うかのように彼のことを邪険に扱い続けましたが、ひとたび彼が世間の注目を集める名探偵となると知るや、それまでの態度をひっくり返し、あまつさえかつての依頼失敗の件を引き合いに、割に合わない仕事や、危険な仕事を強引に依頼してくるようになったのです。
 彼は、今回の依頼が無事落着したら、この人物とのつきあいをいっさい辞めてしまおうと考えているのでした。それほどまでに、彼はこの人物のことが嫌いになっていたのです。


 なにはともあれ、すべてはこの依頼を無事片付けてからの話です。
 若い探偵は長い思案を終え、ふと顔をあげると、あたりはすっかり夕闇に包まれていました。
 昼前には森に入っていたので、かれこれ6時間以上は歩き続けたことになるでしょうか。
 立ち止まり、周囲に目をこらすと、うっそうとした木々の先にかすかな明かりが浮かんでいました。この森に館以外の建物はないと聞いていたので、あの明かりのありかが館だろうと考えた彼は、疲れた足にむちを打って、再び歩き始めました。
 最後の茂みを抜けると、そこにはやはり館がありました。見るも豪華なその大きな洋館は、ささやかな明かりを灯して暗い森の中に照らしだされています。
 3匹の猫しか住んでいないはずの館に、こうして明かりが灯っているところを見ても、この館には確かに人間が住んでいて、それは亡き資産家の孫に違いないと考えた彼は、中の様子を注意深くうかがいながら、館の構造を確かめるために周囲を回り、裏手へと向かいました。
 そして、館に背中から寄り添うようにして立つ大木の下を通ったとき、木の枝から何かが落っこちてきて彼の頭に覆いかぶさりました。
 突然のことにびっくりした彼が、あわててそれを頭から引き離してみると、1匹の小さな白猫でした。
 彼は、頭にのしかかってきたその子猫を抱え上げました。
 館の表から入ってくる外灯の明かりを背に照らしだされた、小猫であるはずのそれは、にわかに人の姿をしているかのように彼の目には映ったのです。
 濃紺色の生地に白いレースをあしらったゆったりとした服装に身を包んだ若い女の子の、胸元を彼は両手でつかみ抱えあげていたのです。
 彼はあまりのできことに驚いて手を離してしまいました。目をしばたかせます。
 女の子かと思われた猫は、やはりただの猫でした。
 と思うのも束の間、その白猫は彼の顔に再び覆いかぶさり、今度は爪を立てきました。
 彼はたまらずその猫を払いのけると、猫は地面にすとんと着地し、尻尾を太く尖らせて威嚇しています。
 彼は、痛みで顔をゆがめながら、小さな猫がいきりたつそのこっけいなさまをおかしげに眺めていたのでした。
 しばらくすると、白猫は玄関のほうに向けて何事もなかったように歩き出しました。
 若い探偵は、この猫のあとをたどっていけば飼い主である資産家の孫が見つかるかもしれないと思い、着いていくことにしました。
 猫は玄関の白い大きな扉の前までやってくると、細く甲高い鳴き声を発します。
 すると不思議なことに、ぎしぎしという音を立てて扉が開き始めました。
 扉が半分ほど開かれると、猫は中に入っていきました。
 彼も続いて中に入ります。
 すると入り口に広がるホールのまん中に、3匹の猫が行儀良く手足を床に着きながら、こちらを見つめているのでした。
 さきほど彼の顔に傷を負わせた白い子猫。純白であるはずのその白い毛並みにはところどころ泥や草のかけらが混じっています。
 左にも白い猫。
 汚れてしまっているかの猫とは違い、そのつややかな白い毛並みは気品さえ感じさせる美しさで、背もかの猫より高く、細やかで、それは姉を思わせました。
 そして、中央に立つのは黒猫。しっとりとした黒い毛並みを鮮やかにたたえ、抜きんでた高背に、それは凛とした風格を感じさせるものでした。
 姉猫と黒猫は澄んだ鳴き声を発すると、まるでお辞儀をするかのように頭を下げました。
 妹猫はそっぽを向いたまま知らんぷりをしています。
 なにやらおかしなことになったなと、猫のしぐさに思わずお辞儀を返してしまいながら、彼はそう思わずにはいられなかったのでした。


 "あいさつ"を済ませた黒猫は、奥の廊下を歩いていきました。
 妹猫は、まだ開いていた玄関の扉から外へと走り出していきました。
 扉が閉じられると、姉猫と若い探偵の2人(?)だけとなっていました。
 彼が姉猫を見ます。
 すると彼女は振り返って歩き出すと、階段を上りはじめました。
 彼はただ見送っていましたが、階段の踊り場にさしかかったとき、姉猫は彼のほうを振りむくと、物言いだげに見つめました。
 「着いてきて」ということなのでしょうか。
 とりあえず、彼はあの猫に着いていくことにしました。
 いくつかのドアをやり過ごし、長い廊下の行き止まりに着きました。
 ドアが開けられ、中に入っていく姉猫に案内されるように、彼は室内に入りました。
 その部屋は、ベッドや机、クローゼットに化粧台や洗面台などの、客間にとって必要なひととおりの家具と設備が整えられていました。
 立派ではありましたが決して華美ではなく、しょうしゃで落ち着いたものでした。
 ドアの閉まる音が聞こえてきます。彼を部屋まで案内した姉猫が出ていったようでした。
 とはいえ、ドアに外から鍵が掛けられたというわけでもありませんでした。
 彼は、とりあえず仕事は明日から取り組むことに決めて、疲れきった体と張りきった足をベッドに投げ出すと、すぐに深い眠りについてしまいました。


 あくる日。若い探偵は香ばしいコーンポタージュの匂いで目が覚めました。
 起き上がると、ベッド脇に食台があり、そこにポタージュとパン、コーヒーやサラダなどが乗せられています。
 それは、朝食でした。
 いったい誰が持ってきてくれたのだろうかと部屋の中を見回すと、窓台に乗って太陽の光を浴びている妹猫を見つけました。
 彼は昨晩から何も食べていないこともあり、用意された朝食をぺろりと平らげてしまいました。
 彼が食べ終わると、妹猫は食台の元に駆け寄りました。そして押すようにして台を部屋から片付けていったのです。
 小さな猫が簡単に動かせるような食台ではないのに、それはごく滑らかに動き、彼もそれを当たり前のように思っていました。
 猫屋敷と言われているゆえんでしょうか。


 思いがけず美味しい朝食にありつけた若い探偵は、館の中を探索し始めました。
 隠し部屋や屋根裏部屋などの、いかにも遺産や資産家の孫が隠れていそうな場所はもちろん、どんな小さな隙間ですら見逃すつもりはありませんでした。
 探偵として鍛えぬかれた能力は世間でも高く評価されていましたし、自信がありました。
 しかし、館の構造は拍子抜けしてしまうほど単純なもので、隠し扉も、本棚の裏に隠された地下への階段も、ましてや全ての部屋と秘密の屋根裏部屋を繋ぐ通気口すらも、ありはしませんでした。
 人はなく、書斎に黒猫と姉猫、別の部屋で妹猫を見かけたくらいのものです。
 館中の全ての部屋は鍵が開いていて、誰の侵入を拒むことなく、そして、侵入を拒まなければならないなにものも、全ての部屋にありはしなかったのです。
 気がつくと、窓から差し込む光が橙色に変わっていました。
 1日かけて館内をくまなく探索したというのに、遺産のありかも、資産家の居場所も、その手がかりすらつかめなかったのです。
 彼は落ち込んでしまいました。


 若い探偵は、あたりが暗闇に包まれるまで仕事を続けました。
 しかし、そもそも館の構造自体がいたって単純だったのです。
 凝ったベランダや、大がかりな吹き抜け、壮麗なテラスといった、金持ち館につきものの意趣はなく、むしろ質素というべきものでした。
 玄関より右手のほうから美味しそうな匂いが漂ってきます。
 空腹を覚えた彼が扉を開けて入ってみると、そこは広いダイニングルームになっていました。
 そして、長テーブルの上には豪華な料理がずらりと並んでいました。
 彼は体の力が一気に抜けていくのを感じました。
 1日を費やして館内を探しまわって、ひとっこひとり見つからなかったというのに、いったいこの料理は誰が作ったというのでしょう。
 彼は、自分の力では到底太刀打ちできない強力な敵によって、軽くもてあそばれているかのような無力感に陥っていったのでした。
 そんな彼の姿を、それぞれの椅子にちょこんと腰掛けている3匹の猫が、神妙な面持ちで眺めているのでした。


 次の日。若い探偵はあのコーンポタージュの匂いで目が覚めました。
 彼は、得体の知れない敵のひそむこの館の内にいるというのに、ぐっすりと眠り、こんなに満たされた気分で朝の目覚めを迎えたのは、生まれて初めてではないだろうかという気がしていました。
 昨日と同じように、妹猫は窓台に乗って太陽の光を浴びているようでした。
 どうやら朝日を気持ちよく浴びるのにこの客間は、うってつけのようなのです。
 探偵は、窓の左手に備えつけられたクローゼットの中に、男物の上着のすそがはみ出しているのに気がつきました。
 考えてみれば彼は、この館にやってきてからまる2日間、同じ服を着ていたのでした。
 部屋にしつらえられたシャワールームで体は洗ったので、汗くさくはなかったのですが、それでも服がこうもくたくたになってしまっていることに実は、我慢ならなくなっていたのでした。
 クローゼットを開け中を確かめてみると、センスの良い服が何着か揃えられていました。サイズも合いそうです。
 クローゼットの中の小引き出しを引いてみると、そこには男性用下着が入っていました。


 彼はきれい好きで、2日以上も同じ下着を着ているのが耐えられずにいました。
 この仕事にそれほど日にちがかかるとは思っていなかったので、替えの下着を持ってきていなかったのです。
 彼は喜びいさんで全部の衣服を(下着を含めて)脱ぎました。
 物音に気づいて足元に降りてきていた妹猫は、きょとんとした表情で、彼の"それまで下着に覆われていた部分"を見上げていました。
 彼女の小さい顔は、左右に揺れていました。
 その顔の動きが止まったとき、妹猫はいきなり尻尾の毛を逆立て、”それ”を爪で思いきり引っかいたのです。
 このとき彼が発したこの世のものとは思えぬ悲鳴は、森全体にこだましました…。
 若い探偵は、午後も大半が過ぎるまで客間で療養せざるをえませんでした。
 とはいえ仕事は仕事です。痛みに障らないよう大またでゆっくりと歩くようにして、夕方ごろから館の中を移動し始めました。
 途中の廊下であの妹猫に会うと、彼女は廊下の隅に引き下がりうつむいてしまっています。
 彼はその様子に不思議な気持ちを覚えるのでした。
 今日はあの黒猫と姉猫がいる書斎を訪れることにしました。
 ドアを開き中に入ると、黒猫は書斎の机で手をすらすらと動かしていて、姉猫はその傍らで黒猫の様子を見つめていました。
 黒猫は彼に気づくと手を動かすのを止め、彼の様子をまじまじと見つめました。
 しかしすぐ手の動きを再開させます。
 姉猫は彼の脇を小走りに通り抜けると、ドアの外に出て行ってしまいました。
 彼は、黒猫が手で何かをしている机に近寄ります。黒猫はそれを気にも留めません。
 黒猫のしていることを確認したそのとき、彼には、この館と資産家の孫にまつわる謎のすべてが、明らかになったのでした。


 黒猫は机の上で、小さな手に持ったペンを動かしていました。書類を書いていました。
 今は亡き資産家が設立した財団の活動に関する書類に、サインしていたのでした。
 そのサインは、資産家の遺産をその財団ごと全て受け継いだ孫の名にほかならなかったのです。
 若い探偵は、真実を目のあたりにして混乱せずにはいられませんでした。
 ふらふらと書斎を後にし、自室として割り当てられた客間に戻ると、ベッドに倒れこみました。
 このまま眠りについて、明日の朝に目が覚めたら、自分の住む貧相なアパルトメントのおんぼろベッドであったなら、どれほど楽だろうと彼は思いました。
 精神的に参ってしまっていたのでした。


 階下からかぐわしい匂いがかすかに漂ってきました。
 昨晩の夕食はたいそう美味しいものでした。
 いったい誰が作ったのかという疑問や、毒が入っているかもしれないという不安を、打ち消して余りある素晴らしい料理でした。
 しかし、今はもう誰が作ったのかということなど、どうでもよくなっていました。
 猫に化けた人間か、人間の真似をする猫か、自分の妄想のどれかが作った料理など、美味しいか美味しくないかというより、食べたくありませんでした。
 明日目が覚めたらこの館を出よう。森を出て、依頼主の人物に報告する前に病院に行こうと、若い探偵は考えました。


 客間のドアが静かに開けられました。美味しそうな食べ物の匂いが広がります。
 いつもは朝食を運んでくれる食台が今度は夕食を積んで、若い探偵の寝転がるベッドの脇に置かれました。
 彼は寝たふりを決めこみます。
 しかしいつまでたってもドアの閉まる気配がしません。薄目を開けると、妹猫が彼のことを見ていました。
 彼に猫の表情はわかりませんでしたが、そのときの彼女は、今にも泣き出しそうな表情をしているように、彼には思われました。
 つい妹猫に手を伸ばします。けれど彼女ははっとしたように、走り去っていきました。


 若い探偵は目を覚ましました。
 どうやらあわい眠りに落ちていたようです。
 すっかり冷めきってしまった夕食に申し訳ない気持ちを抱きながらいると、不意に風の流れを感じました。見ると窓が半分開いていました。
 窓を開けた覚えはありませんでしたが、森の夜は冷え込むので閉めようと窓に向かいます。
 月明かりが森の陰影を鮮やかに浮かび上がらせていました。
 しばしその幻想的な光景に見とれていると、甲高い鳴き声がかすかに耳をつきました。
 それはとてもささやかな音でしたが、探偵という職業柄物音には敏感でしたし、何よりその鳴き声は聴き覚えがありました。
 彼は半開きだった窓を全部開けると、そこから飛び降りました。
 運動神経には自信がありました。
 着地した瞬間は痛みが走りましたが、音のした森の暗がりへと全力で疾走していきます。
 あたりは月の光も届かない漆黒の闇でした。


 淡く青白い光が揺れているのを見つけました。
 目を凝らすと、暗闇より黒い何かがうごめいています。
 猟犬です。ふたつの赤い目が不気味に光っています。おそらく狩人の手を離れて野生化したのでしょう。
 その猟犬の口に、白いものがくわえられていました。
 若い探偵の脳裏に妹猫の姿が浮かびます。
 彼はとっさに近くに散らばる長枝を手に取ると、猟犬に向かっていきました。
 猟犬は妹猫を吐き捨てると、前足で地面を蹴りしめ、彼に飛びかります。
 手に持った枝で払いのけました。
 猟犬は牙をむき出し、恐ろしい勢いで再び襲ってきました。
 彼の振るっていた枝に猟犬は噛みつくと、へしりと容易く折ってしまいました。
 枝の破片をはき捨てた猟犬は、彼の顔面めがけて鋭い牙を立ててきます。


 若い探偵はとっさに自分の腕を猟犬の牙に差し出しました。彼の腕は鈍い音を立て、猟犬の牙に噛みつかれてしまいます。
 骨のきしむ音を伴い激痛が体を駆け巡ります。しかしこの痛みは、今朝経験したあの痛みに比べればどうということはありませんでした。
 彼は、猟犬を牙ごと腕で押さえ込み、体を持ち上げるようにすると、枝の破片、折られて尖った先を猟犬の腹部に思いきり突きたてました。そしてえぐるように枝を回し、一度引き抜いて、今度は心臓に狙いを定め渾身の力をこめて突き刺しました。
 猟犬の赤黒い血が衣服に吹きかかります。顔に血しぶきを浴びながらも彼は、枝にこめる力をゆるめませんでした。猟犬のぎらぎらとした赤い目はしだいに焦点を失い、腕を噛む力も徐々に抜けていきました。猟犬は、息絶えたのでした。彼は、血の溢れ出る片腕を垂らしながら、妹猫の元へ駆け寄りました。
 生きているほうの腕を動かし、彼女を抱きかかえます。
 肌に手を当ててみると、かすかに温かく、意識はないものの命の脈動は失っていませんでした。
 あの猟犬はこの子に牙を立てることはなかったようです。
 妹猫は、手になにか草のような束を握りしめていました。
 とっくに気絶しているというのに、彼女はそれをずっと離さなかったようでした。
 それが何なのか分かりませんでしたが、安心した彼は、力が抜けたようにその場にぺたんと腰を下ろすと、そのまま倒れこんでしまったのでした。


 若い探偵が目を覚ましたとき、既に夕闇が迫っていました。
 しかし彼が眠っていたのは、森の中ではなくベッドの上でした。
 しかも、貧相なアパルトメントのおんぼろベッドではなく、館で彼に与えられていた客間のベッドでした。
 驚いて起き上がると、腕に痛みが走ります。
 夜の森での戦いが一瞬にして頭によみがえってきました。
 あのときの恐怖が汗となって、背筋を伝っていきます。
 しかし、猟犬に噛まれたときの激痛はだいぶ引いていました。腕を見るとしっかりと包帯が巻かれています。
 患部には薬も塗られているのでしょう。傷口に染み入る爽快感がなんとも心地よいものでした。
 これと同じ爽快感が、股間からも感じられることに彼は気がつきました。
 思わず下着を開いて、中を確認してみます。
 すると案の定、何か薬草をすりつぶしたような液体が塗ってあるのでした…。
 改めて部屋の中を見回すと、ひとりの女の子が部屋に置かれた机に肩肘を突いてうとうとしていました。
 銀色の美しい髪が机上を垂れています。
 彼女を以前どこかで見たことがあるような気がしました。
 そしてすぐに思い出したのです。
 この館に初めて着いた夜に、館の裏手で抱き上げた女の子でした。
 あまりにも不可思議な出来事だったので、その女の子の姿を彼は鮮明に覚えていたのでした。
 彼女の手元に1通の封書がありました。
 彼にとって、それは”あった”というより、"見えるようになった"というべきでした。


 「この手紙を読んでいる貴方様へ。
 貴方がこの手紙を読んでいるということに対し、まず深く感謝いたします。
 そして、この館と私と私の愛する子どもたちにまつわる真実を、どうか平静にお受けとめください。
 それだけが、死にゆく私の最後の望みです。
 私は孤独でした。
 妻を失い、息子夫婦も亡く、私の財産にしか興味がない親類には心が許せずに、この世と、生きるということそのものに興味を失くしかけていました。
 そんな私にとって唯一の生きる希望となったのが、息子夫婦の忘れ形見である孫でした。
 そして、彼とのふれあいを通して、子どもという存在の尊さに気づかされた私は、ある決心をして、国内の恵まれない子どもたちを助けるための財団を設立したのです。
 老いた体にむち打ち、財団の活動に日夜の区別なく取り組んだ10年、私にとってそれは充実した日々でした。
 仕事にかまけてほとんど構ってあげられなかった孫も、ひいき目ながら立派に成人し、財団の仕事を通じて知り合った善き人に託された幼い姉妹とともに暮らした、森の中の館での生活は、私にとって生きるということと幸せの全てでした。
 しかし、私の余命もそろそろ尽きかけようとしていることに気づきました。
 このまま私が死んでしまったら、ようやく軌道に乗った財団の活動も、私の財産も、孫たちの幸せもろとも親類や親戚たちに奪い取られてしまうでしょう。
 それだけはどうしても避けなければなりません。
 そこで私は、古くからの知り合いでありこの森の同居人でもある魔女に相談しました。
 彼女は何も言わず事情を理解し、私にある提案をしてきました。
 それは、私の余命すべてを代償にしてこの館と孫たちにある呪いをかけるというものでした。
 もうおわかりと思いますが、あの子たちを猫にしてしまう呪いです。
 ただ、猫であっても人間と同じように生活できるよう、館自体にも呪いをかけます。
 そういった呪いでした。
 私を人でなしと呼んでくださって結構です。
 大切なあの子たちの幸せを願っていながら、私は彼らを一生この館に縛りつけようとしているのです。
 もちろん私も悩みました。
 しかし魔女から直接呪いのことを聞いた彼らは、嫌がるどころか望んだのです、この呪いにかかることを。
 私の夢を引き継いで、恵まれない子どもたちをこれからも助けていきたい、と。
 私は胸を引きちぎられるような思いでした。私の夢はまさしくあの子たち自身でもあったからです。
 私は明日には、呪いの代償として死ぬつもりです。
 私の夢である子どもたちの幸せを見届けることが叶わないまま。
 しかし、貴方にはあの子たちを幸せにすることができます。
 この手紙を読むことのできる貴方には、それができるのです。
 どうか、私のかわいいあの子たちのことを、わかってあげてください。
 心を、すくってください。
 どうか、どうか、お願いします」
 若い探偵は、その手紙を読み終えると、丁寧に封筒へ戻し机の上に置きました。
 とてもやさしげなまなざしで、机に頬を押しつけて眠りこんでいる"元妹猫"の頭をなでてあげます。
 彼はなぜか、そうせずにはいられなかったのです。
 頭をなでる手に気づき、彼女は目を覚ましました。
 そして、彼が”自分の本当の姿を見ている”ということに気がついたのです。
 彼は、彼女の手に草の緑色が染みついているのを見つけて、あのとき握りしめられていた草は自分の傷を癒してくれた薬草だということに気がつきました。
 彼は思わず彼女を抱きしめていました。彼女の頬が次第に朱に染まっていきます。
 けれども爪を立てるようなことはしません。何しろ彼女はもう、猫ではなかったのですから。
 ドアから1組の男女が姿を現れました。
 男性は、彼と同年齢くらいの、タキシードをさらりと着こなし気取らない笑みが、どこか人懐っこさを感じさせます。
 女性は、腰のあたりまで伸びた銀色の美しい髪に、柔和なたたずまいが安らかな心地にさせてくれます。
 彼はもはや尋ねるまでもなく、それが黒猫と、姉猫であったことがわかりました。
 彼女を離すと、彼は若き主のもとに歩み寄り、それがごく当たり前であるかのように堅い握手を交わしました。
 若き主は彼の耳にそっと口を近づけると、こう言いました。
 「あの傷の具合はいかがですか?」


 翌朝。若い探偵はある決心を胸に、館を離れました。
 玄関では主と姉が寄り添うように、彼の出立を見送っています。
 妹は客間の窓から外に足を投げ出して座っています。
 彼女はどこか不機嫌そうにしていますが、それがさびしいということであるのに、彼はなんとなく気づいているのでした。
 しかし、彼はひとつどうしてもやらなければならないことがあったのです。
 森を出、列車を乗り継いで街に戻ると、彼は依頼主の館を訪ねる前に、通りを外れた暗がりに店を構える、一風変わった服飾店に入っていったのでした。


 依頼主の人物は、若い探偵の腕に巻かれた包帯に驚いているようでした。
 彼はいかにも苦々しげに、こう、語り始めたのです。
 「あの館は呪われています。思い出すだけでもおぞましい。
 貴方は、資産家の孫があの館に隠れているとおっしゃっていました。
 確かにあの館に孫はいました。けれども彼は、人の姿をしていませんでした。
 猫の姿に変えられていたのです。姉妹も同じように猫の姿にさせられていました。
 館の書斎にあった記録を調べてみてわかったのですが、どうやら、遺産を全て受け取れることになった彼らは、その財産を早く自分の手にしたかったばかりに、資産家を殺そうとしたのです。
 しかし殺害に失敗し、それに激怒した資産家は、森の魔女に頼んで彼らを猫の姿に変えてしまったのです。
 そして資産家は、自分の死後も財団の活動が滞らないよう、猫の姿をした彼らを使役しているのです。そう、永遠に」
 「そこまで調べたとき、突然館全体にまがまがしい声が響きました。
 『この館の秘密を暴こうとしているのは誰だぁ』と。
 驚いた私は慌てて書斎を出てホールに逃れたのですが、そこで巨大化した猫が現れ、いきなり私に襲いかかってきたのです。
 とっさに防ごうとしたこの腕が、この通り、がぶりとやられてしまったわけです」
 「凶暴化した猫をなんとか振り払い、命からがら私は館を飛び出しました。
 しかし災厄はこれで終わりではありませんでした。
 突如館全体が黒光りしたかと思ったら、私の頭上に稲妻が落ちたのです。
 そのとき頭に響いた言葉を私は一生忘れることができないでしょう。
 『この館に訪れた者がどうなるか、謎を暴こうとした者がどうなるのか、とくと思い知るがよい!』
 目の潰れるような暗闇が私の頭を一瞬にして包み込み、あまりの衝撃に私は気を失ってしまいました。
 一時ほどして目が覚めると、なにか頭に妙な感触がしました。恐る恐る触ってみると…」
 彼はそれまで被っていた帽子をおもむろに外しました。
 あらわになった彼の頭には、猫耳がついていたのです。
 依頼主の人物はまさしく飛び上がりました。
 「どうしてくれるんだ!お前のせいでこんな姿にさせられたんだぞ!
 損害賠償だ!慰謝料よこせ!今回の企みを全て暴露してやるからな!」
 依頼主の人物は彼の気迫と猫耳に半ば気を失いかけていました。
 そして残りわずかの意識で執事に二言三言ことづけると、本当に気を失ってしまいました。
 そうして彼は帽子をかぶり直すと、依頼主の館をあとにしました。
 執事から受け取った、規定のざっと10倍の報酬額とありったけの宝石をポケットにあふれさせながら。


 若い探偵は、今日も国じゅうを駆け回っていました。
 かわいらしい小猫に足元をつきまとわれながら。
 その小猫はときおり彼の足にちょっかいを出したり、飛びかかったりしていました。
 そのくせ、彼のそばを片時も離れないのでした。
 小猫と楽しそうに話しをしている彼の帽子からは、猫耳がはみ出していました。
 かつて名うての探偵であった彼のことを、大人たちはおぞましげに言います。
 「猫のたたりだ」と。
 でも子どもたちは、彼のことを夢見るようなまなざしでこう言います。
 「猫やしきの猫たんてい」と。
 彼は、その探偵としての能力を生かして、国じゅうの困った子どもたち、辛い思いをしている子どもたちを探し出し、救いの手を差し伸べました。
 それがどんなに隠された、わかりづらくて、子どもたち自身では助けを求められないような場合でも、たちまち見つけ出してくれて、救い出してくれました。


 国ざかいに広がる大きな森のなかに、たいそう立派な館が建っていました。
 この森の大半を治めているその館の主猫と猫探偵と猫姉妹のお話は、国じゅうの子どもたちに大人気でした。
 誰もがたすけられ、あこがれ、そして大人になると忘れていきました。
 この森を猟場としている狩人たちはもうこの館に決して近づきません。だんだん館の存在も付近の人々に忘れ去られ、行き方を知る者もいなくなりました。
 その森に足を踏み入れる1組の男女が、いました。
 人間、かもしれません、猫、かもしれません。
 2人が何に見えるかは、「貴方しだい」。
 「猫と猫屋敷と猫探偵」のお話は、これで終わりです。