この"プロローグ"を受け継いで始まるべき本編は、僕らの手に委ねられる

 主人公の気持ちとプレイヤーの気持ちは、感情的な温かさと冷たさという意味で対称化し、それは互いに損い合うのではなくむしろ互いを高め合い、深め合っている。主人公と同一であり、かつ全く別の存在としてプレイヤーを位置づけることの可能なゲームというメディアであるからこそ可能な、神秘的な関係性。もしかしたらこの作品自体に対する評価というものも、この領域に含まれるのかもしれない。何しろ僕は、あるいはこの作品を辛らつに批判することもできるのだから。

 作品内に存在する全てのファクターが対称化し、両義的であり互いが互いを研ぎ澄ましているこれは、リアルに向けたプロローグなのだ、双方を司り統合させる存在としての僕らが何を感じ、どう考えるかという"この作品の本編"にとっての。「planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜」という作品の本編は、リアルにおいてあらゆるデバイスを駆使することのできる(あるいはその可能性を秘めた)僕らの一人称視点において、ゲーム時空を超えて開幕するのだ。

 「止まらない雨に腐り落ちた現実を、彼女が語るささやかな現実と交換する。そんな方法が、どこかにないものだろうか?」

 「天国をふたつに、わけないでください。ロボットと、人間の、ふたつに、わけないでください」

 このプロローグがテキストとゲーム性の総力をあげて完膚なきまでに救われないものであったことの中に、それは僕ら自身が救っていかなければならないのだという切実な訴えを聞かなければならない。「ほしのゆめみ」のほのかに温かいメモリー(希望)は、主人公でも誰でもない、僕らプレイヤーが受け継いでいたのだ。そして、彼女の夢見た世界、誰もが妄想する幸せなエピローグは、僕ら自身の手で実現していくのだ。それこそが、本当にささやかで、本当にかけがえのない彼女の願い。

 2時間もかからないあまりにささやかなプレイ時間で得られるにしては、あまりに桁外れの骨太なメッセージに、僕はただ感服する。と同時に、意表をついた、というより反則的なゲーム性の活用方法に苦笑を浮かべる。そうして僕は何を考えるわけでもなく、"ロボットとは思えない"豊かな表情と屈託のない笑みを浮かべるほしのゆめみちゃんのことを思い浮かべながら、酔いしれるのだろう、「Gentle Jena」をエンドレスで聴きながら。対称化している主人公とプレイヤーとで、もし共感できるものがあるとするならば、それは今僕が感じているこの心地良さくらいなものなのだろうから…。