主人公が攻略される恋愛ゲーム

 「計算高い振りをして、嘘をついて(略)でももっと単純に、クリスの側にいられるだけで幸せだと感じられるのも、また真実だった」
 「本当に、クリスは馬鹿だった。でも、そこが良いところでもある」
 この作品は、主人公(クリス・男)がヒロインによって"攻略"される恋愛ゲーム作品である。通常の恋愛ゲーム作品のように、純粋無垢で無邪気で健気なヒロインに対し、主人公がときに策を弄し、演技をし、嘘をつき、彼女の好意をゲットするというスタイルではなく、純粋無垢で無邪気で健気な主人公を、ヒロインがときに策を弄し、演技をし、嘘をつき、彼の好意をゲットするというスタイルであったことが、のちに判明する。主人公の好意、或いはその高い音楽的才能、もしくは”囚われの自分を助け出してくれる"存在として主人公は、利用される。たいていの恋愛ゲーム作品でヒロインが体現している、純粋できらびやかな恋愛という"萌え"の根本を構成するテーマ性は、この作品においては主人公が司っているといっても過言ではない。とはいえ主人公に"萌える"ことは、少なくとも僕にはできそうもないが。
 柔和で軟弱、子供っぽくて覇気のない、それでいて音楽的才能に恵まれた主人公は、ヒロインたちに"愛される存在"としてあるのだ。主人公をモノにするために、打算的な恋愛を駆使して愛情をゲットする、この作品を多少穿った見方で捉えれば、こういう表現になるのかもしれない。極端に誇張された幼女性、純粋無垢を形にしたかのようなキャラクターデザインは、ギャップによってその印象をさらに鮮烈なものにしている。
 けれども、そういった言葉どおりの醜さ・胡散臭さが劇中に溢れているのかといわれれば、決してそうではない。それどころか美しくさえある。テキストで語られる語られないに関わらず、打算的で嘘にまみれたヒロインたちの恋愛、その内に秘められた強い想いはとても純粋であることがどうしようもなくわかってしまうからだ。美しい、それはありのままの人間として。表層的な恋愛がキレイではないからこそ、萌えられないからこそ、むしろ心のうちにある本当の気持ち、純粋で激しくて譲れない想いが際だち、はっきりと感じられる。
 人間とはそもそもそれほどキレイな存在ではない。その人間を美しいと表現できるとすれば、それはまさに彼女たちのような心のありようなのではないだろうか。善悪や道徳、常識といった通り一般の価値判断を超越して、ありのままの人間の想いこそが、本当はほんとうに美しいのではないだろうか。そんなことを考えさせられた。