先日の早朝、自動車事故に遭いました。自動車同士の追突事故。というか、自分が起こしました。優先道路を走る相手の車にわき道から横切ろうとした僕の車がぶつかって、被害は僕の車は後部ドアがベコンとへこんで、相手の車はナンバープレートがはがれた程度。怪我したとかそういったことは双方なかったんですけどね。
 いやね、相手が自分の停まっているわき道に入るウィンカーを出していたから、先に横切ろうとしたら相手の車がそのまま直進してきてビックリ。まぁ、それにしたって相手の車が一時停止してから横切るべきだったし、7-9割僕のほうが悪いわけで…。そんな感じで現在は保険屋さんが交渉している、のかな。連絡待ち状態。
 それにしても、事故に遭った瞬間の自分の心理状態と思考を思い出すと可笑しくなってしまう。追突の衝撃を感じた後、一気に血の気が引いて、まずこう思ったのさ。「頼むっ!これは夢であってくれえええええっっ!!」って。本気でほっぺたを捻ろうかという勢い。笑っちゃうよね。そして車を出て相手と話し、相手が呼んだお巡りさんを待っていてる間、朝の通勤通学の人々がとても遠い世界、こことはどこか違う(一切自分を含まない)風景のように感じられる、視野狭窄っていったっけ?(なんか違う気がする…)。
 現在の足は自転車。もうしばらくは車になりたくありません(ちゃんと動くんだけど)。事故現場も意識的に避けていたり。後遺症なのかなあ。
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 車っていうのは自我の殻だって言うよね。車の内部って、通常外部からの干渉を受けない排他的で、自分でドアを閉めて中から鍵を掛けるという意味で自閉的、そしてその内部はその所有者が自由に装飾や機器の配置をすることができる親密性・支配性、つまり自我。そしてそこから導き出される妄想と現実の接合部、それこそが車における精神的な意味合いになってくるんじゃないかと思う。
 かの宮崎勤は街で見かけた幼女を車に乗せ、彼女が大人しいときは危害を加えず、けれど"ぐずり"出したとたん、その凶暴性をあらわにして殺害するに至ってしまった。また最近でも老若の男性が幼女を車に乗せて数時間連れ回した挙句、なんら危害や強制わいせつ行為をするでもなく彼女を解放してしまう事件をよく見かける。
 それらに共通するのは、車の内部がその運転者の自我であり、そこは所有者で支配者で当事者でもある運転者の妄想世界の一部であり全部であるということ。車の内部にいる運転者は妄想世界の主人公であり、その助手席に座る幼女は運転者の妄想世界のヒロインであるのだ。そしてその妄想世界の物語(筋書き)は当の昔に支配者によって脱稿されており、そのシナリオは百種類以上に及ぶかもしれない。
 そのオリジナルやベースとなっているのは、支配者の思い出であったり、支配者の好きな作品でもあるだろう。それらの数多のシナリオのなかから、当事者が選択し、それを運転者が体験する。これらの全ての作業は運転座席上で完結しているから、助手席の幼女はなんら危害を加えられたりはしないのだ。
 略取された幼女はいわば妄想世界のヒロイン像を流し込む祭器、彼女が助手席に座り大人しくしているのは儀礼の一部だからであり、車の内部はいわば儀式の祭壇であるのだ。であればこそ、儀式の祭器としてのそれは、穢れなく、従順で、親しみのあるものでなければならない。絶対に成人女性や女子中高生では勤まらないのである。
 妄想世界と現実世界を隔てる扉を開けるための儀式は、このような厳かな手順に従って、しかるべき地において執り行われている。そして、このしきたりを破ろうとする祭器に対して、執行者は決断しなければならない、この儀式自体を中断するか、もしくは祭器を罰するか、である。
 いずれにしろ、このような格式ある儀式により開かれ車の内部に発現する妄想世界は、その実まったく平和で、のどかで、公序良俗の行き届いた世界観の微笑ましくも幸せな物語であったりする。これに対し、マゾヒスティックで非道徳的、ヒロインを虐げることで己の快楽を満たすというような類の陰惨な世界観と下劣な物語の執筆者は、えてして儀式という外部の力に頼ることなく、自らの自我力によって目の前に存在する現実世界を瞬時に妄想世界へと変じさせることができる。
 この手の人間にとって祭器の意志は全く関係がない、その影響を受けない。まるで高位の神官たるものは、儀式に寄らずまた祭器に頼らずして、現実と妄想の扉を自由に開け放つことができるのだといわんばかりに。支配者の意志・妄想絶対世界こそが、そこに発現する妄想世界の本質なのだ。
 現実世界に発現させた(出張・部分的)妄想世界の内で、自分が為した行為とそのリアクションを認識し、それを(本源・本体的)妄想世界にフィードバックしさらに妄想化して、それによって際限なく醸造されていく身体的な興奮と、その高ぶった精神が自分の行為をさらにエスカレートさせていく。自己完結型循環作用と欲望(性)の物語化。現実の客観性はこのとき完全に喪われ、行為者にとって主体的意味をもつもののみが時空を支配する。
 「現実と空想の区別がつかない」というよりも、「現実が空想を誘惑し、空想が現実を歪ませる」。オタク文化の発展の歴史はこのテーマの無秩序で際限のない循環と肥大にほかならない。そしてオタク文化に対して埒外の人々が声高に叫ぶ悪弊を防ぐには、つまり「現実が空想を誘惑し、空想が現実を歪ませる」というテーマを規律するシステムの構築はもちろん、オタク文化を安全に"嗜む"スキルをどう開発し普及させていくかということに尽きる。
 オタク作品が自らの妄想に対しどう誘惑しているか、自らの妄想が現実の風景をどう歪ませているか、自我の認識・精神作用を"ネタ"として意識することが、つまり"嗜む"ということの本意である。
 オタク文化に親しんでいる者は嗜まなければならない、自分の深い部分をネタにしていかなければならない。自らを探り、自らをさらけ出す。そうすることで自分を客体化することができ、1週間前のネタを頭のログに収納することで心の許容量が増え、心理的な余裕が生まれる。そうすることでさらに高度に嗜むことができるようになる。
 「オタクよ、自らを嗜め」
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 つまり何が言いたいかというと、だろう運転はよくないよ?ということです。