ANIMEファンはどうして一家言あるのですか(from 好き好き大好きっさん)

 自分が味わった作品について、称賛なり批評なりの形で語らずにはいられなくなる情熱こそがオタの本質だと俺は思うわけですが、この「語る」という行為が、実はけっこう曲者なわけでして。オタが自分の愛する作品の良さを人に伝えようとしても、その語り方が巧くないと、語れば語るほどただ暑苦しいだけになってむしろ逆効果……という恐ろしい罠がありますから。(略)
 これって、基本的には建設的な要素ですけれど、ある意味では呪いといっても良いような気もします。本質的には一人きりでのみ味わえる類の快楽を、他者と共有しようとせずにはいられなくなるわけですから。

 オタク的である人々にすくう根源的な欲求とは、自分の鑑賞したアニメなり、プレイしたゲームなりを、まさに鑑賞しプレイしたことによって自分が抱いた感想・批評といった類のモノを、それを抱いた自分自身の個性と共に、他者にわかってもらいたい、共感してもらいたい、という一方的な願望という形を取るのではないだろうか。
 そもそも「一人きりでのみ味わえる類の快楽」を「一人きりでのみ味わえる」人は、そもそもオタク的ではないような気がする。例えば僕はギャルゲーオタであり、美少女ゲームをプレイして思ったこと・考えたこと・思いついたことをネット上にテキストとして著さずにはいられないが、今朝通勤で利用した電車について思ったこと・考えたこと・思いついたことをネット上にテキストとして著さずにはいられないということはない。それは僕が電車に関してオタク的ではないからだ。だけれども、例えば電車に関してオタク的である人は、もしかしたら今朝通勤で利用した電車について思ったこと・考えたこと・思いついたことをネット上にテキストとして著さずにはいられないのかもしれない。
 誰がそうしろと言うわけではない、自らが自らを束縛する「〜せずにはいられない」という自己宿命的な嗜好をもってしまうことが、本質的意味におけるオタク性と呼べるものであるのかもしれない。その宿命的嗜好と、オタクに根付く根源的欲求、さらには、自らが表現しなければ何の関係性も生み出さないインターネットというメディアの爆発的普及、この三要素によって、オタクはまさにオタクであるがゆえにさらにオタクとなっていく、連環し高度化するオタク製錬装置が完成していった。
 自分のことを理解してほしいという一方的で受動的な欲求が、身勝手に宿命化され、本来的に積極的なメディアであるインターネットにおいて強引に発散され、不自然に歪められた結果が、今日のネット状況であるのだろうか。どんなネット状況かって?いや、僕はよく知らないんだけどね…。
 自分のことを理解してほしいという願望は、およそ全ての人にとっての願望であるはずだ。しかしステレオタイプ的にオタク的である人は、自己表現が苦手な傾向がある。リアルのコミュニケーションにおいて自分を表現することが苦手なオタクは、インターネットでテキストを駆使して自分を表現しようと試みる。しかしテキストで自分を表現するということは、案外、というより当然のように非常に困難な事業だ。自分という存在を相手(読者)に対し円滑に自らの意図どおりに伝えるためには、それなりの文章力や表現力・語彙力といったハードウェア的な資質が重要となってくる。そんなものは一朝一夕に獲得できるようなものではない。
 ではどうするのか。それは、オタク的である人がこぞって鑑賞或いはプレイするような人気作品を自分も鑑賞或いはプレイし、その作品に関する自らの感想、またはひとかどの賞賛や批判を込めたテキストをネット上に著し、同じように著わされた"同業他者"のそれと相互に相対化・比較することによって、各人の個性というモノを浮かび上がらせ、それを触媒にしてコミュニケーションを取っていこうという方向性が見出される。
 オタク界隈という狭い世界と、オタクが好む作品という狭いジャンルを利用し、限定されたタイトルを共通言語として位置づけ、その解釈の仕方に自分という存在の主張と表現を映す。作品という言葉を介して会話をし、元ネタ探しという表情を交わして意思を疎通させ、ネタバレという身体的触れ合いを通じて信頼を築いていくのだ。
 これはネット内オタク文化とその住民にのみ発効するコミュニケーション方法。そこではつまり、「作品をどう語るか」ではなく、「作品でどう語るか」というのが僕らの真実となってくる。そして、「作品を語る」という行為は、「僕」というネット上に存在する個の生命維持に必要不可欠な、例えば呼吸のような身体的活動であるといえるのかもしれない。そうではないのかもしれない。実は僕にもよくはわからない。だって僕は呼吸を止めたことがないのだから(最近息を吹き返したばかりだけどね)。