シナリオリーディングというゲーム性

 2/23付のテキストで「物語はゲームであるべきだ」と書いたけれど、その意味するところは一体なんだろうと、僕の表現の意味をここのところなんとなく考えていて、それでちょっと思いついたことがあります。「シンフォニック=レイン」というゲーム作品における物語は、ノベルという単なる一表現形態(ジャンル)ではなく、テキストを読み解いていく、世界を解釈していくというひとつのゲームそのものだったのではないだろうかと。この作品において見られるシナリオリーディングというゲーム性こそが、物語はゲームであるべきとする僕の思想を実現した一方法論なのではないだろうかと、そんなことを考えたのですよ。
 アクションやシューティング、格闘といったジャンルに属する作品は、プレイヤーの技術や相性によって得られる価値が全く異なってくる作品です。操作の巧い人は作品のより先の部分、最終的にはクリアをすることができるけれど、それに劣る人は途中で、もしくは最初の面での挫折を余儀なくされるわけですよね。あるいは特定のゲーム作品だけが特に得手不得手という場合もあるでしょう。操作の巧拙、相性とそれによるゲーム進度によって、同一作品から得られる面白さや感動といった価値あるものが量的にも質的にも変化する、この基本的なゲームシステムが、より多くの価値あるものを獲得するために各プレイヤーにおいて、プレイ回数を重ねることで自らの技術を磨かせ、イメージトレーニング等をこなすことで作品に対する相性を適正化させていく動機ともなっているのです。
 プレイヤー各人の技術や相性によってゲーム作品から得られる価値が異なること、それこそがゲーム性のゲーム性たるゆえんなのであって、その点ゲーム作品は根本的に非バリアフリー的なのかもしれません。障壁があり、それを自分の力で乗り越える、少なくともそう疑似体験させる装置こそがゲームであって、一見非常に困難な障壁に見えて、その実適度に努力すれば誰でもクリアできるような絶妙のゲームバランス構築こそが、ゲーム制作者にとっての腕の見せ所になってくるのです。障壁があるからこそ動機が生まれ、難しいからこそやり甲斐を感じることができる、ゲームの基本概念はまさしく人生哲学そのもののような気がしてきました。もちろん、名作ゲームのような絶妙の人生バランスを構築してくれる、神のような存在(ゲームクリエイター)は実在していないようですが。
 つまり何が言いたいかというと、アクションゲームやシューティングゲームにおいてプレイヤーに求められる技術や相性を、ノベルゲームにおいて読解力・洞察力に置き換えてみるべきなのではないかと、僕は、少なくとも 「シンフォニック=レイン」というゲーム作品についてそう考えたわけです。物語をテキスト上、表層的な部分しか読み取れずにいた僕のようなプレイヤーは、せいぜいシューティングゲームでいう1面か2面くらいで自機が全滅してしまったようなもので、読解力や洞察力のあるプレイヤーは、物語と世界の真実という価値あるものを獲得することができる。それは極めて正統的なゲームシステムであり、そのゆえをもって「シンフォニック=レイン」という作品は非難されるべきではなく、むしろ物語をほぼテキストの力のみで見事にゲーム化してのけた、その力量と度胸を賞賛すべきなのですよ。
 フォルテール演奏という、シリーズにおいて確立されたアクションゲーム的(本来的)ゲーム性が外堀を構え、選択肢による分岐や、各ヒロインシナリオ相互の関連性、有機的な視点移動といった物語におけるハードウェア的なゲーム性が城郭を構成、それらと密接に連絡し、それらを充味し、作品全体を統括するそれ自体自律した天守としての"ゲーム化した物語"。これこそが「シンフォニック=レイン」という作品の真の姿なのでしょう。
 そしてこのゲームは、追加のコインを一切必要とせずいくらでもコンティニューすることができるわけです。なにしろゲームの最終局面やラストステージ、ラスボスは僕らプレイヤーが自ら見つけ出し、あるいは創り出し、そしてクリアしていかなければならないのですから。挿入歌の「いつでも微笑みを」で歌われている通り、「いつかわかる」ときがくるのですよ、お金じゃなく思いというコインを"ひらめき口"に挿入する、"想像"コンティニューを積み重ねることによって。
 テキスト描写の淡白さと紙一重の厳然さ(肉)を補う、岡崎律子さんの情感的な音楽(魂)。どこかのwebで読んだけれど、フォルテール奏者は魂で音楽を奏で、歌手は肉で歌う、だからこそフォルテールは歌と相性が良いのだという。物語中ナタールの教会内で語られる魂と肉の関係は、もしかしたら「シンフォニック=レイン」という魂の作品と、僕ら肉としてのプレイヤーの関係にも当てはまるのかもしれないなと、思ったりもするのでした。
 しかし「シンフォニック=レイン」という魂は、あまりに孤高に過ぎたのではないか。かの魂は僕らプレイヤーという肉にはあまりに近寄りがたく、あまりに理解しづらく、クリスとヒロインたちのそれほど僕たちの卒業演奏は、魂の完成度や美しさに相応しいほど聴衆の喝采を浴びてはいないようなのが、残念ですね。それは誰のせいなのか、うーん、たぶん僕ら肉のせいなんでしょうなあ。いや、額に"肉"って黒マジックで書いても無駄ですから。
 まだまだ僕はコーデル先生に卒業を許してもらえそうにありませんね。