弾丸一発で失われてしまう世界で一番大切な

先日、昨年公開された映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のビデオをレンタルビデオ店で借りてきて、子供たちと見た。(略)見終わった時、小学5年の長男がぽつりと、「人一人の命って重いんだね」と言った。本人いわく「以前に見た、異星人が地球を侵略する外国映画では、ばたばたと人が死んだんだ。この映画は、たった一人死んだだけなのに重苦しいな」。「セカチュー」は、そんなことを子どもたちに教えてくれた。*1

 実はこの後には「映像制作者は残虐シーンが子どもに与える影響を考えて欲しい」みたいな、手垢だらけの結論が書かれているんだけど、僕はまったく違うことを考えました。結局、映像作品が子どもに与える影響を考えるとき、作品単体の残虐性の是非を論じるより、他にどのような作品を鑑賞させるか、限られた狭いジャンルや同一傾向の作品ばかり鑑賞させていないか、子どもの視点に立ったバランスの良さと、さまざまな作品から物事についての考え方を比較・相対化でき、現実について多面的に理解できるような、鑑賞作品のバリエーションの質と豊かさが重要になってくるのではないかな、と思うのですよ。
 「セカチュー」は見たことがないけれども、人の命というものをいくら大切に、貴重に、愛おしく描こうとも、戦争で銃で弾丸一発で人は粗末に、ばたばたと、あっけなく死んでいく。それは現実であり、だからといって人の命が大切じゃなく、貴重でもなく、愛おしくないものなんてことにはならないでしょう。何が本当のことで何が嘘のことか断定せずにはいられない薄っぺらい価値観ではなく、どっちも僕ら人間にとっての実際のことであるということを受け止めることができる、とっても単純で絶対の真実みたいな"拠りどころ"の芽生えを助け、懐の深い心が育つための肥やしを選び、子どもたちに提供することが、親と社会には求められているんじゃないかなぁ。
 どの作品が善で美しく、どの作品が悪で醜いというのではなく、世界というものは善と悪の濃度を増減させながら動いているのだから、人間というものは美しさと醜さをひと括りにして存在しているのだから、善悪美醜多くの作品に接するべきだし、善であれ悪であれ質の高い作品をいかに幅広く鑑賞させるか、子どもの成長段階を見極めながらも自然な成り行きで鑑賞させるか、その配信姿勢と内容・プログラムをこそ、議論されるべきなのかもしれません。そうなると表現の自由が重要になってくるのですが…。あっ、↓の日記でヘンなこと書いてますよ!矛盾してるよなぁ…。

*1:4/1付読売新聞朝刊