「きく」  星野富弘

よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛に近いような気がする

 よろこび、強さ、しあわせ、それらうつくしきもの、この世界において普遍的にさいわいである肯定的な属性は、悲しみ、弱さ、ふしあわせ、それらみにくきもの、この世界において普遍的に好まれざる属性を前提として、相対的な仮初の意味を与えられているに過ぎないという示唆は、僕らにとっての共感のアンテナが、それら好まれざる属性をベースにしているという前感覚的な確信を導きます。
 人というものが、共感することができるのは、それは、自分も含め誰もがみな、しあわせ、真実、愛を求めて生きさまよっている悲しい、弱い、ふしあわせだという"共同意識"を、その存在の根拠にしているからではないでしょうか。自身が醜い存在であると知っているからこそ、美しいという感性を見出すことができるように、善き存在へと変わろうとする人の意思こそが、希望のともしびであるように、人は共感することができるからこそ、生きていけるような気がします。共感することに説明も根拠もいらないのは、つまりそういうことなのでしょう。現に僕らは生きているのですから。
 よろこびや強さ、しあわせは自分ひとりがかみしめることができる、自分以外の誰に説明したり理解を求めたりする必要のない(独存的な)価値であるのに対し、悲しみ、弱さ、ふしあわせは他の誰かにわかってもらって、共有化することによって初めて輝きだす(連繋的な)価値であるという意味でも、それが"近い"理由であるのかもしれません。