海を飛ぶ夢

 「どうしていつも笑顔なんですか?」
 「他人の力に頼らないと生きていけない人間は、いつか覚えるのさ。涙を隠す方法を」
 若いころに四肢麻痺の障害を負った主人公が、28年たった現在に、尊厳ある死、魂の開放を求めて繰り広げる戦いを描いた真実のドラマ。この映画をいかめしく表現するとこんな感じになるんだろうけれど、僕がこの映画を見終わった今余韻としてまず思い出すのは、潮の香りが鼻腔をくすぐるような、圧倒的なまでにすがすがしい飛翔感、です。空と雲と山と海の原色が、こう、まぶたに鮮明に浮かんでくる、ただ、それだけです。
 確かにこの作品の随所では、尊厳死安楽死・自殺といった、生きるということ死ぬということ、人間という存在にとって最も根源的な、かといって哲学的であり宗教的であり詩的でもあるテーマが、主人公ラモン自身や彼の家族、彼を支援する弁護士や愛する女性、または彼を批判する神父の口を借りてさまざま語られていきます。
 しかし劇中におけるそれら偏在的な議論の末に、映画として一つの究極的な解答を示すわけではなく、社会や法曹界の無理解を徹底的に糾弾するというわけでもありません。作品としてひとつの論点を据えているわけではなく、主人公の主張を絶対化しているわけではなく、何を声高に主張するのではなく、ただ、地味で淡々としたドラマと、そして地味で淡々とした結末があるだけです。
 この映画の特別な性質について語るべきものがあるとすれば、それは、自らの死生観について登場人物が語る重い言葉は、正しいとか間違っているとかいう次元では語れない、「事実」として、受け止めなければならないことであると、この映画の視聴者は予感せずにはいられないということ、です。
 それらの言葉は生きた人間が語る言葉であり、生きた言葉。自ら死を選ぼうとしているラモンの、死という現象が帯びている意味的な重圧感をはらりと脱ぎ払ってしまったかのような、あっけらかんとしたスタンス、陽気で軽妙で思わず吹き出してしまうような愛敬のある話しぶり、彼を介護する義理の姉、甥、兄や父の家族としてのやりとりと、黴が生えたような生活、神父の操る電動車椅子、車窓から見えるなんの変哲もない風景、盛り場、病院、愛、誕生、そして海。
 それらは取り立てて感動的なことではなく、特別なことではなく、ごく当たり前の日常として、明け透けの"いまを生きているということ"。それらの情景を愚直なまでにありのまま織り込んだフィルムのなかで語られる彼らの言葉は、とても生きているのです、生きてくるのです、視聴者の心の中で。
 生きているという事実、全ての人にとって自分だけの事実、そのうちのひとつにラモンにとっての「生きているという事実」があり、この映画においてはそれが、ささやかな演出と脚色をともなってクローズアップされているに過ぎないのです。そして、ラモンにとってのこの「生きているという事実」とは、一階で食卓を囲む家族と、二階でクラシックのレコードを聴くラモンという対比によって如実に表現されているような気がしてなりません。
 「海を飛ぶ夢」という邦題の夢とは、眠っているときに見る夢ではなく、憧れ、目指すものとしての夢。ラモンはつまり、眠っているときに見る夢から"覚めて"、海に落ちたあのときから中断させられていた、海を飛ぶ夢を追い求める旅を"再開"したい、つまりはそういう意味がこめられているのではないかしら。
 なんてことはない、この映画は本当ラモン個人の夢の話であって、その残照あるいは夢のつづきが、今僕の気持ちに余韻を残す、海の原色と、飛翔と、潮の香りなのでしょう。
 ことさら感動的ではないし、特別考えさせられるということもない。ただ、とても気持ちのいい映画でしたね。海水浴なんてもう十何年もしてないけれど、今年は行ってみようかなぁ、などということをこの映画を観て思うだなんて、観る前は想像すらしなかったですよ…。