「プレイヤーの手になるもの」という思想

 ちなみに、画面右下の激萌え生物はスルーの方向で…。激萌えっス!

 誰かに自分の心を察してもらえるということがいかに素晴しいことなのかを実感するのが、キーボードとマウスを前にしたときというのは少し悲しい気もするのですが。
――自分の書いたものを読んでもらった時に、こうした感覚を味わってもらえればなぁ、というのが私のひとつの目標であり、理想であったりします。*1

 私も常々、ゲームに限らず、男の生み出す「女」が「都合がいい」とか「リアルに存在しっこない」と、必要以上に強硬に拒絶される本質は、「美少女であること」「主人公がモテ過ぎる事」「シチュエーションが都合良過ぎること」等よりもむしろ、女キャラが男に対して馴れ馴れしいというか、接するハードルが格段に低い事だと思ってました。
 女(の子)って男と接する時、必ずどこかに壁一枚警戒心をはさむものだと思いますからね。本能的にどこかに心理上の距離を取りたがるというか。でも、我々が「分かってくれる」ギャルゲーが心地良いなんて言ってるから、男は女に母親を求めるとか揶揄されるんでしょうなあ(笑)*2

 僕はもともと思慮の浅い人間なので、思いつき的にhttp://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20050427/p3に書いた以上のことは脳みそが及びませんから、今更洒落たレスなぞつけられませんが、本当に(ごめんなさい)。
 ギャルゲーをプレイしていて味わうような、主人公の、彼にとって一番大切な人(ヒロイン)に「わかってもらえる」幸せを、手のひらを返したリアルで、今度は自分にとって一番大切な人を「わかってあげる」ように、わかってあげられるように、少なくとも努力するきっかけくらいになるのなら、くだらないギャルゲーもお慰み程度の存在価値はあるんじゃないかなぁ、とか思ったります。
 たとえ、自分がわかってあげようとする相手についての認識が、その正体と比べれば、馬鹿みたいに「都合がいい」「リアルに存在しっこない」ような、妄想の純粋培養物に過ぎなかったとしても、相手をわかってあげようとすること自体は、妄想世界からはみ出している思いやりでしょうからねぇ。

他人と自分は違うから、他人に理解してもらえないのは当たり前、というのが信条。結婚したいという女性の人生相談に、「私の気持ちをわかってほしい」というレベルなら恋愛する資格もないと一喝する。「世の中」は、他人が集まって常に自分の邪魔をするもの。だから、オレは人とコミュニケーションするために、まず他人ありきで必死に考える。一個人として人生を生きるって大変なことだよ*3

 主人公の心をヒロインがごく自然に察してくれることの奇跡は、その裏返しである"一喝されてしかるべき"現実があればこそ。
 その奇跡を大安売りで大盤振る舞いしているギャルゲーには、ゲームとしての表現形式、例えば、ヒロインが常に主人公のほうを真正面から向いてやりとりをする、対面ウィンドウ式アドベンチャースタイルが根本的に抱えている、有無を言わさず構築される主人公=プレイヤー中心世界、潔癖なまでに「まず自分ありき」の弊害が見え隠れしているように思われます。
 主人公=プレイヤー中心世界であるからこそ、主人公(自分)の心をヒロインに察してもらえることが、別になんでもないことのような、当たり前のことのように感じられてしまうのです。しかもそれがごく自然なことのように物語は進行していくので、視覚的だけではなく感覚的にも現実との接点を見失います。
 何かが麻痺してしまいます。
 校舎の風景もヒロインの気持ちも世界のありとあらゆるものが主人公中心の視点で成立していて、ぶっちゃけ全てが"主人公のモノ"。その世界を「これは主人公の夢の中の話だ」とプレイヤーが指摘すれば、その時点でゲーム内の現実は容易に瓦解してしまうという意味において、その麻痺感覚は実在しています。
 手をいっさい使ってないのになぜかケーキを食べていて、その甘みが体中に鮮やかに染み渡っていくかのような。麻痺した手腕と妙に鋭敏な脳味噌との不均衡。
 ビジュアルが派手で思想性豊かなギャルゲーは、その精神を主人公=プレイヤー中心世界としての表現様式によって、自分の手や腕であるところの現実感覚の麻痺したプレイヤーの内面に、直接注ぎ込んでいきます。
 その精神は美しく、真理的で、内なる輝きを秘めていることが(たまに)ありますが、でもそれが制作者にとってもプレイヤーにとっても「ひとりよがり」になってしまいがちなのは、そこに現実との接点、プレイヤーの手になるものがあまりに希薄だからなのです。
 メッセージ性を受け入れるために開錠されたプレイヤーの内面世界。
 そこに伝わってくるメッセージは確かに素晴らしいが、プレイヤーの手になるものは、SEXのテクニックばかりだとしたら。
 青春と恋愛の瑞々しさ素晴らしさというメッセージを伝えつつ、プレイヤーの手になるものは、校舎内での不衛生な性交やアブノーマルな性技ばかりだとしたら。
 少女は愛し慈しまなければならない大切な人類の財産であるという素晴らしいメッセージを伝えつつ、プレイヤーの手になるものは少女をどうやって拉致しどうやって監禁しどうやって性的に開発していくかということばかりだとしたら。
 それは、どれほど精神性に富んだ名作であったとしても、日本が世界に誇るべきゲームというエンターテイメントを、おぞましい凶器に貶めてしまう危険性をはらんでいるといえるのです。
 世の人の行いでもっとも恐ろしいのは、気高く美しい理想を胸に容赦のない残虐行為に走ること。いわゆるそれは独裁者。ああ、最近のワイドショーを賑わせている彼の学生時代のあだ名は「王子」でしたね…。 
 こちらからは何をしないでも無条件で主人公を真正面から見つめてくれたヒロイン(というよりギャルゲー)とは違い、リアルの女の子はこちらから何もしなければ自分など見向きもしてはくれません。
 いやしかし。自分から何もせずとも、無条件に自分のことを真正面から見てくれる、無償でがっぷり四つに関わってくれる存在があります。それは、母親です。
 王子を溺愛していた母親が亡くなってから彼はエロゲーにハマり出したというニュース記事の報告は、(それが本当ならば)非常に興味深いものがあります。
 彼の幼児的な愛情欲求は、その大いなる供給元であった母親を喪失し、その代替物としてメイドという空想を見つけ出します。
 メイド、職業倫理としての奉仕精神を纏う空想的存在。それは、失われた母性愛をひととき彼に錯覚させるに十分な外形的要素を備えているといえるでしょう。言葉や道具を用いた精神・肉体的教育。それは空想的存在であるべきメイドを現実世界に呼び戻し定着させるための儀式であったともいえます。
 しかし、愛情ではなく契約でもなく恐怖によって生み出されたメイドは、当然のことながらまったく不完全な存在です。メイドの奉仕精神を勘違いした愛情に満たされつつも、その不完全性ゆえにまみれていく不安、ふき溜まる不安定。
 手を滑らさずしっかりと彼女という"母親"をつかみ続けているために、さらなる暴力を振るっていくしかないのです。際限なく増長する暴力の連鎖。愛情を繋ぎとめるためにしなりをあげる鎖。締め付けられる首輪。
 むごい暴力を振るい、それに耐えている姿を見ることで彼は、束の間の安心を手に入れることができたのでしょうか。その忍耐もまた愛情ではなく恐怖によるものであったのに…。
 幼児の自己都合的で非論理的な欲求に無条件に無原則に応えてくれる、意味のある言葉を発せずとも自分の気持ちを分かってくれる、いつもどんなときにでも一緒にいてくれるのが母親という存在であるように、プレイヤーの身勝手で非人間的な願望や妄想、性的欲求を無条件に無原則に満たしてくれる、不器用な自分の本当の心を察してくれる、ゲーム内のその全ての時間をプレイヤーと共にあるのがギャルゲーのヒロインという存在であるように、彼は、彼女のすべてを自分のものにしようとしたということなのでしょうか…。
 「男は女に母親を求める」ものだとしたら、まず間違いなくギャルゲーは、母親そのもの。
 「彼女を幸せにできるのは僕だけだ」という盲目的な思い込みで、彼は彼女に首輪をはめ、「彼女が本当に望んでいることだ」として振るう暴力は、全くもって彼自身の欲望のすりかえ、独裁者の自己正当化に他なりません。
 ご主人様は独裁者。王子様はテニプリのコスプレ。なんかもう、笑っちゃいます、というか笑うしかありません。その現実(ニュース記事)があまりに妄想的で、「どう信じればいいんだよっ」という話ですよ…。
 ただ、女の子とコミュニケーションをとる上でまず最初の、彼女に「自分を見てもらう」という段階でとっとと道を踏み外し、1000本以上ものエロゲーによって心豊かに培われた"プレイヤーの手になるもの"を駆使した、とある国の「王子」様の末路を、まったくの他人事のように気色悪がれるほど、僕は、ギャルゲーというものを不真面目にプレイしたことはありませんけれども。
 「プレイヤーの手になるもの」という思想。
 それは、ゲームプレイを通した、ゲームデバイス上におけるプレイヤーの努力・思考・根気・感性・そして幸運を注ぎ込み、達成される熱烈な神秘性。プレイヤーが何を求め、そして何を得たかということ。
 ギャルゲーにおいてプレイヤーが求めているのは、結果としてのヒロインの恋愛(好意・思想そのもの)であり、成果としてのヒロインの肢体(性的自由・権利の剥奪)。つつましやかにプレイヤーを受け入れ、性的に容易に手に入るヒロインは、狙って当てれば必ず落ちる射的の的。
 それらは実に即物的であるために目的意識が確立しやすく、安易であるためにシステム化しやすく、製作者共同で運営されている脳内工場にて量産体制が整っています。
 お約束化された多種多様なご都合主義を製作方針に沿って取捨選択し、そうして集められた"部品"を、安定性と意外性のバランス配分に流行感覚を働かせて巧みに組み立て、作り上げられる製品(プロダクト)としてのギャルゲー。それはもはや"作品"とはいえないモノではないでしょうか。
 ギャルゲーにおける「プレイヤーの手になるもの」という思想の着地点を、僕は「恋愛ゲーム」であるということに設定したいのですよ。結果ではなく、成果ではなく、もちろんご褒美としてではなく。「一個人として人生を生き」ている主人公とヒロインたち、そんな当たり前のことをまざまざと感じさせる少年少女たちが繰り広げる、地上の恋愛。
 奇跡的な分かり合いも無条件の見つめ合いもなく、プレイヤーの手になる恋愛をゲーム化するという、つまり"恋愛をゲームする"ということを真剣に科学して欲しいんですね。
 思いつくままあげれば、主人公の感情表現・言語表現の操作ツール化、コミュニケーションのリアルタイム化、または任意の視点変更、具体的な行動選択など。ただ難易度が高いというのではなく、「自分のせいできちんと挫折することができる」ということは、ゲームの基本原則の一つに違いありませんから。少なくとも、挫折のない恋愛は嘘ですから。
 脚本家の頭の中で精製される恋愛的情緒性を、それはテキストに籠められるものではなく、プレイヤーがじかに体感すべきものであり、恋愛の情緒性をありのままゲーム化することが、恋愛ゲーム作品の本質なのです。
 恋愛小説ではなく、電脳紙芝居でもなく、恋愛ゲーム作品で在るという事…。
 まぁすべてが絵空事ですがね。というより(激しく)僕の妄想に過ぎませんけれどね。
 大量生産される製品としてのギャルゲー。そして大量消費されるヒロインの性。その性をプレイヤーにとって価値あるものとするためだけに無闇に維持される、新品であることと同義の処女性と、ヒロインとのSEXを前提とした口実としての恋愛。
 本当はギャルゲー製品などに救いを求めなきゃならんほど自分を貶めたくはないんですがね。それでも僕は、どうしようもなく製品としてのギャルゲーが大好きだというあたりが、どうしようもなく悲しいところです。
 「プレイヤーの手になるもの」という思想。ギャルゲーをプレイした後、この手に熱い何かが残るような。その熱い何かを大切に握り締め、家を飛び出し町で風を切り、社会のなかで、自分の人生のど真ん中で、何かをせずにはいられないような。プレイヤーが何を求め、そして何を得たかということを胸を張って皆に自慢できるようなギャルゲー作品に、僕は会いたいの。
 えーっと。何が言いたいんだかよくわからないでしょうが、ご心配なく、僕もよくわかりません。ひぇ〜勘弁してぇ〜。

*1:「双曲線天使」さん http://members.jcom.home.ne.jp/oriha/diary0505.htm#050509

*2:通りすがりさん 投稿フォーム

*3:5/15付読売新聞