主人公の家庭の味をヒロインは奪う

 家族は「食卓」を通じ、空間や時間、話題、気持ちといったあらゆる面を共有している。大家族ともなれば、よかれあしかれ、さらに多様さを持つ。
 たまの(家族)だんらんでも、「バラバラ食」で、ファミリーレストランのように家族が別々の物を食べている。単品だけしか食べない「ばっかり食い」現象もある。その結果、人づきあいも偏ってしまう。
 調理済み食品は、かつては仕方なく利用するものだったが、今は積極的に選んで買うものへと意識が変わってきている。食べる人のために料理をするというよりも、むしろ日々の食卓をこなすだけ、と割り切っている人が増えているからではないか。*1

 ギャルゲーの主人公は大抵、人付き合いが苦手で、ごく少数の"悪友"とだけ密接な付き合いをしています。そして毎日の食事は母親による手料理ではなく、それどころかほとんど一人暮らしでインスタント食品かコンビニ弁当、しかもその食事はあまり美味しくない、少し寂しい、まさに"こなす"べき食事として描かれています。
 それに対置される形で、相手の機微に敏く誰にでも好かれる性格をしたヒロインは、極端に料理が上手だったり(ときにプロ級の!)、かと思えば極端に料理が下手だったりします(ときに大量破壊兵器級の!)。そしてそういう子は決まって、家族と同居しているために自分の料理を振舞う機会と相手に乏しいものとして描かれています。
 そういう風に考えてみると、ギャルゲーとは、現今の食卓風景を如実に反映した主人公が、心のこもったメニューを増やし、箸がうわずるようなあたたかい食卓を再興していく家庭の味物語といえるのかもしれません。少なくとも、(設定的に)家庭の味を喪失した主人公がいて、家庭の味を持て余しているヒロインがいるのですから、それは、純粋な恋愛感情とくんずほぐれつの、食べることに対する眼差しがカチっと組み合わされることを既定された、しあわせ。
 恋愛というものが、個と個の関係としてより、擬似的に構築される家族的な関係をもとに食卓と結びついていく。制服の上にエプロンを纏ったヒロインが主人公宅の台所で料理をしている姿に、主人公が欲情してしまうというお約束的なシーン、それがお約束化していること自体がそのいい証拠です。
 それまで空虚だった家族、その中心である食卓を司る台所に火がともったということに対する主人公の無邪気な喜びが、ヒロインの制服エプロンという異性と母性の混濁した象徴によって、倒錯した、あるいは原初的な「無垢なる性愛」に変質したということなのでしょうか。適当ですが。
 ここで注目しなければならないのは、美味しいか不味いか見当もつかないようなヒロインの料理を、しかも相手の面前で主人公が食べるという"儀式"は、結果天国に上ろうが地獄に落ちることになろうが、ひとつの責任を主人公に背負わせるということです。それは他愛なくも厳粛な仮家族関係締結、或いは暫定家庭の味独占契約。主人公はその口にくわえた箸で、それらの書類にサインするのです。
 たとえばヒロインお手製のお弁当を食べて、あまつさえ自分ちで料理を拵えてもらっておきながらその子を振って、他の子になびいたりできますか?僕にはできませんよ。もしかしたら、処女を頂いたヒロインを"捨てる"ことよりも強い罪悪感が芽生える予感がしませんか。
 それは、無意識的に"家族であること"を切望し、ヒロインと"家族になること"を既定されている主人公にとって、一度得た家庭の味を再び失うことは「あってはならない」こと。家庭の味がふたつ「あってはならない」のです。
 主人公にとっての家庭の味を独占させたヒロインを、振るということは、自らの手で自分の家族を解体するということであり、既定された運命に逆らう暴挙であり、自分を形作るギャルゲーという世界自体を崩壊させる、それは自滅行為。その恐怖が強い罪悪感の背後にあるのかもしれません。
 そして、恋愛が食事と結びついているということは、究極的に、家庭の味を知らない主人公が家庭の味を知るということと、快楽の味を知らないヒロインが快楽の味を知るということを繋げます。ヒロインの処女を奪った主人公の家庭の味を"奪った"ヒロイン、ヒロインに性の愉しみを教える主人公に食の楽しみを教えるヒロイン。
 ギャルゲーにおける性と食の渾然としたダイナミズムは、超絶的な美食が心身ともに理想的なヒロインを象徴し、世紀末的な凶食は心身ともに偏奇的なヒロインを象徴していることを突き止めます。極端に大きいバストや極端に薄い"胸囲"、あるいはヒロインの多様な年齢や性格設定は、プレイヤーにとっての「何が美味しいのか」という"家庭の味"を選択する幅として捉えることができるわけです。
 主人公とヒロインが、擬似的な家族関係のなか、性と食を通して互いが互いの責任を負っているという観念的な紐帯があるからこそ、ギャルゲーは奇妙な存在意義を確立し得ているのではないでしょうか。
 であればこそ、現象的には徹底的に妄想的で限りなく記号的なギャルゲー的恋愛が、そこはかとなくプレイヤーの思いを引き寄せてしまう「あったかい謎」を維持していくためにも、主人公はストイックなまでにインスタント食品かコンビニ弁当を「ばっかり食い」していなければならず、ヒロインはやさしく美しく奇跡的な処女でいなければなりません。観念の前では一切のあいまいさも許されないからです。
 「空間や時間を共有」するための様々な、それは学校であり教室であり商店街であり授業であり昼休みであり放課後であり休日といった通常箱物装置、さらに「話題、気持ちといったあらゆる面」(より深い面)「を共有」するための、食卓でありSEXといった強化関係装置。
 そうして見えてくる本質的な、そう、本当の意味でギャルゲーの恋愛にとってもっとも不可欠な"装置"は、実は、家庭の味というものが限りなく希薄で、日々調理済み食品を「ばっかり食い」するような寂しい食卓をこなすだけの、僕らプレイヤーの存在そのものなのです。あったかい謎、それは失われた憧れ…。
 既定された主人公のしあわせと、想定されたプレイヤーの食卓風景。なんともちぐはぐな話になっちゃいましたが、まず間違いなく言えるのは、ギャルゲーはその存在自体がプレイヤーを哀れんでいるということですよ。いろいろな意味で。

*1:4/29付読売新聞