"部活動"としての居心地の良さと、僕の後悔

 先日から読売新聞に、「ゲームとつきあう」という記事が連載され始めて、その第一回目がネットゲームについてでした。通常のRPGをはるかに凌駕したプレイ時間を要求するMMORPGと、それにのめりこみ社会生活を壊してしまう人たちについて、本人もその経験者であり、そういった人たちを防止するためのwebを運営されている人のコメントと、そのwebが紹介されていました。

 今からネトゲを始めようとしている人を止めるサイト
 http://netgamestopper.hp.infoseek.co.jp/index.html

 このwebについて、僕は懐疑的です。軽く流し読みましたけれど、ここには、ネットゲームが諸悪の根源で、ネットゲームに費やしたプレイ時間がまったく無駄だった、ネットゲームなぞプレイしていないで現実の社会に目を向けろよ、といったような垢だらけのメッセージがあふれています。
 それが、僕には既にネットゲームを引退した人たちの、負の感情に支配された虚しい自虐行為に映ってしまって、怒涛のように押し寄せてくる否定に、どうこう思う前に胃がキリキリしてしまうのです。
 つまるところ、別れた旦那や恋人についてのあさましい悪口が端にとっては聞き苦しく、それを言ったところで誰に聞かせたところで、別れた旦那や恋人が更正するわけでもなし、婚姻制度や恋愛文化の悪弊が是正されるわけでもありません。それと同じように、ただただ「聞き苦しい」のです。
 「今からネトゲを始めようとしている人」という捉え方も非常にあいまいで空虚だし、ネトゲとやらは、今日び「始めよう」と決意して始めるような大層なものでもないでしょう。胡散臭い匿名投稿を収集・編纂するそのようなwebを運営するくらいなら、新聞にコメントを寄せていたweb管理人さんの体験を、自らの思想をこめて熱く語ってくれたほうが、少なくとも僕は感銘を受けると思います。
 ネットゲームが悪で、そのプレイ時間が無駄だったと指摘することは、しいては、そのネットゲームをプレイしていた自分が、愚かで、プレイしていた自分の人生(の一部)が、無意味だったと認めることにほかなりません。
 精神論になってしまいますが、自分自身の善は自分が証明するしかなく、自分の人生を有意義とするのも無駄とするのも自身の解釈によるしかありません。ほかの誰も貴方の正義と存在意義を証明してはくれないのです。
 確かに現実として、ネットゲームにハマることで不登校や退職などに陥り現実の生活を崩してしまう人たちが増えているのですから、それを防止するために、とりあえずネットゲームを悪として世間に認識させ、人々の自制心に訴えかけるというのは有効な手法だと思います。
 これはある意味、低年齢児に対する性犯罪に走ってしまう人が増えている、その悪しき風潮を食い止めるために、とりあえず児童ポルノを禁止しようという論理と似ているといえなくもありません。
 本質的な問題として、児童ポルノ(だけ)が性犯罪の温床なのかというテーマと、同じく、ネットゲーム(だけ)が生活崩壊の原因なのかというテーマ。神奈川県のテレビゲーム規制など、最近はこの手の"水際作戦"ばかりがもてはやされ、肝心の本質的な問題の認識と、その対策が、本来最早に取り組まなければならないそれが、あろうことか後回しにされているような気がしてならないのです。
 玄関から入ってくる暴漢を排除するセキュリティシステムは万全でも、実際に入ってきてしまった暴漢にはどうしようもない、諦めるしかないという家は、本当に安全といえるのでしょうか。水際作戦ばかりに意を注ぐ社会に、本当の安全は築けるのでしょうか。
 一触即発の興奮状態にある暴漢をどうなだめるか、翻意させるか、あるいは共存していくのかという議論が、児童ポルノにしろ、ネットゲームにしろ、求められていると僕は思うのです。
 児童ポルノやネットゲームを善とし、それを味わっている時間を何物にも代えがたい有意義なものとして認識している人たちの、精神は、もはや家の玄関から入ってきて、居間でくつろいでいる状態にあるのだと認識すべきです。いまさら水際作戦に思考を凝らしたところで意味はほとんどありません。と、僕は思います。
 っと。ネットゲームと児童ポルノをいっしょくたにする阿呆な僕を許してください。ちょっとした出来心でして…。話をネットゲーム、ラグナロクオンラインを意識したそれに戻しますね。

[テレビ視聴制限 学力向上に有益]
 埼玉県戸田市にある小学校で今年3月、児童が家庭でテレビを見たり、ゲームをしたりする時間を制限する日を作る取り組みを試験的に導入したという。「1日2時間まで」「1日見ない」「1週間見ない」という3コースから、各自が選んで実施。保護者からは好評だったという。*1

 僕の娘であるホワイトスミスの育成についてですが、パンダカートを装備できるようになった81Lv以降は、1日3本増速ポーションを消費するということをノルマにしています。1本の効果時間が30分ですから、計1時間30分ですね。忙しい日でも、余裕がある日でも、1日3本というのは絶対守るようにしています。実際には、2本しか消費できなかった日はありますが、5本消費する日はありません。
 そんな風に自分のラグナプレイを数値的に統制する、その意識成立によって、なんとか、ラグナロクオンラインとの適切な距離感を築けたような気がします。まだ、危ういですがね。
 そういった経験もあり、テレビにしろゲームにしろ、その視聴・プレイ時間を数値的に規制するのは効果的で本質的な対策だと思うわけです。
 未熟な自己統制力を補正するために設定される数値的な"枷"は、いわば自転車の後輪に付けられる補助輪のようなもの。それを取り付けるのは親の役目ですが、自転車の運転に習熟し、取り外してもいいかなと判断し、実際にそれを取り外す(あるいは「外して」と親に頼む)のは、児童自身という場合が多いでしょう(僕はそうでした)。
 自分のステータス的な現状を認識し、現実的に判断し、そのうえで行動に移すという、補助輪外しという一連の経過には、ある種の教育的な意味合いが含まれているのかもしれませんね。
 つまり、終わりがなく区切りもなく際限のない人同士のつながりであるネットゲームの状況は、自分(とその欲求)を適切に統制できない児童のそれと同じなのではないでしょうか。非常に高度の自己統制力が求められるネットゲームと、自己統制力の未熟な児童。そういった意味で、対象年齢の低いラグナロクオンラインは際立って悪質であると指摘していいのかもしれません。
 実際、こうしてβテストからラグナロクオンラインにハマっている僕からすると、異様に成長の早い、ありえないほどの高級な装備をしているキャラクターは、翻ってその言動はかなり幼稚で、しはしば対人関係的なトラブルを起こしてしまう傾向があります。
 もしかすると、不正プログラムやBOTプログラム使用者が後を絶たないラグナロクオンラインは、その単純作業的で低いゲーム性がそれらのプログラムを作りやすいということもあるんでしょうけど、そういった、使う側の自己統制力・社会性の未熟さ、ぶっちゃけ"ガキ"が多すぎるということなのかもしれませんね。
 統計があれば見てみたいですが、それでもラグナロクオンラインのメインプレイ層は大学生前後くらいだと睨んでいるので、その層の人間の精神が低年齢化しているからこそ、今日ラグナロクオンラインの(悪い意味での)隆盛があるのだと断定したら、あはは粘着されそうですね(あはは…)。
 大好きだからこそ自己統制力を自ら蝕み、ネットゲームだからこそ自己統制力を無効化する。いったいネットゲームとは、というよりラグナロクオンラインとはなんなのでしょう。
 それは結局、チャット(会話)、なんですよね。
 ネット世代のコミュニケーションツールとして伝統あるチャット。それは、ネット接続が途絶えれば、チャットルームを退室すれば、あらゆる些細なリアルによって容易に切断されてしまう希薄な対人関係。
 テキストオンリーであるばかりに、本人の心理状態によって容易く変わってしまうテキストの意味、その取り違えで認識が食い違い、テキストによってしか修復する術がないために関係は険悪化しやすく、そうしてついに断絶する脆弱な対人関係。
 そんな不安定なネット上の対人関係に、確固とした「世界」を与えたのが、ネットゲームであり、ラグナロクオンラインなのです。若者にとって日常の一部と化しているのに、どこかあやふやなネット世界において、確かな「居場所」を与えるのが、ネットゲームであり、ラグナロクオンラインなのです。
 それは、中高生の部活動と似ているような気がしています。スポーツや芸術、文芸といった部活動本来の目的は確かにあるけれども、部活動のメインは、仲間との交流でしょう。大学のサークルほど軽薄ではないしっかりとした「世界」(部活動本来の目的)があるうえでの、対人関係空間。
 まさに中高生の部活動交流の意識こそが、ラグナロクオンラインに通じているのではないでしょうか。
 部活の居心地があまりに良いばかりに部室に入り浸り、クラスメイトとの親交が希薄になってしまったことで起きた、後悔で自分が嫌になる痛い思い出が僕にはあります。「部活=ネットゲーム」「クラス=生活」→もうそのまんまですよね、はぁ…(また後悔してる)。
 韓流ブームのぶの字もなかった頃から今の今まで、韓国製MMORPGがここまで流行したのは、ネット社会に確かな居場所を求めていた2次元文化の住人である若者たちに、2次元的で親しみやすい(同一化しやすい)キャラクターと、古いからこそ(懐かしいという志向で)安心するファンタジー観によった、ラグナロクオンラインという確かな世界が広く受け入れられたからではないでしょうか。
 人と人とのつながりを基本にした冒険物語と、多種の職業もあり際限のないキャラクター育成を担保にすることで、建前的ではあれ終わりのない安定した対人関係、同じPTやギルドに所属することで抱く、「今日も明日もこれからもずっとみんなに会える」という安心感は、チャットによるメンバー間の多少の食い違いやけんかをある程度飲み込み、ストレスなく消化できる余裕を与えてくれます。また、課金システムによる金銭的な契約関係が、間接的ではあれ現実に立脚した連帯感を暗黙的に共有させるという面もあるでしょう。
 世界の存在が、対人関係を保障してくれているのです。
 GvGを楽しむために日々キャラクターを育成していると、しみじみ思います、「僕は部活動してるんだよなぁ」と。「通常活動=キャラクター育成」「大会=GvG」→もうそのまんまですよね、はぁ…(なぜ?)。
 ラグナロクオンラインに居場所を求めるということの善悪は、僕には判断しようがありませんが、居場所に入り浸りすぎることで失うものがあるということは、たぶん事実。
 自分の人生にしろ自分というそのものにしろ、その価値や意義を見出すのは自分しかありません。ラグナロクオンラインという居場所で過ごした時間や、みんなと共有した気持ちを大切に思うことも、「無意味だ」「くだらない」と切って捨てるのも、自分ひとりの責任によって判断すべき事柄です。他人に言われて「ああ、そうだね」と納得するような事柄ではないはずです。
 しかし、ラグナロクオンラインという居場所を大切に思うことと、ラグナロクオンラインという居場所に入り浸りすぎて他の誰かを傷つけるということは、全く別。後者は絶対に悪いことです。
 ゲームはやっぱり楽しい。ラグナロクオンラインは大好きだ。居場所はどうしたって居心地がいい。しかし、その楽しさや大好きな気持ちや居心地の良さのために、誰か他の人、自分の大切な人を傷つけるようなことがあれば、それは全面的に悪いことになります。
 そうなる前に僕らは、「なにかをしなければならない」のです。
 その「何か」とはなにか。ラグナロクオンラインの、しいてはネットゲームの"補助輪"とはなんなのか。まぁそれは、少なくとも先述の露悪趣味的なwebには書いていないでしょうがねぇ。(ごめんなさい。悪意はありませんから!)


 それにしても。僕が高校のとき部活動にかまけていたことの最大の後悔は、かまけていたクセに部活内で浮いた話のひとつもなかったということですかねえ。この甲斐性なしめがっ!!(←過去の自分)(←実は今も大して変わっていない)(=全然ダメ)

*1:6/1付読売新聞