新米親世代の壊れかけた建前修復事業

 相変わらずどたどたどったんうるさい上の階の住人について。それは、こうしてキーボード叩いている最中でさえ唐突にだだだんと響いてきます。
 一応、6月になったら実家に引っ越す予定なのでそれまでは…ということで先日落ち着いたのですが。その6月になって最初の日曜日、上の階の母親が菓子折り持ってウチにやってきまして…。母親が応対したのですが、コトの次第はこういうことらしい。

  • 試しに実家に連れていって何日か生活させてみたら、(自閉症の)息子は不安がって食事すらできない始末。
  • 6月以降も今の住居で生活。
  • 成長すれば少しは落ち着くかもしれないから、それまですまないが我慢して欲しい。

 自閉症の子は、環境が少しでも変わるとパニックに陥ってしまうというような話を何かのドキュメンタリーで見て知っていたので(それは、普段自分が使っている机を他の人に使われていたくらいで混乱してしまう)、ましてや住居が変わってしまうだなんて、そのパニクリ具合は想像絶するものがあるでしょうよ。
 ウチの母親は、テレビの障害児系のドキュメンタリーが好きで良く見ていて、その延長線上で自閉症児についても大変ご理解があり、「騒音なんて気にしなくていいんですよ。大変でしょうけどしっかりと育てていってください」とかなんとか、逆に励ましておやりになったらしい…。泣ける話やね。
 そんな「君の声が届く部屋」の続編を、一緒にご飯を食べているときに母親が僕に聞かせてくれて、それは、「お前は健康に生まれてきてよかったねえ」という恩着せがましくもありがちなオチで結ばれていました。まあね悪かったね健康だけが取り柄ですから!(今は親知らずが痛いけど)
 自閉症だろうと単なるわんぱくだろうと、毎日朝から晩まで何の前触れもなくどたどたどったんやられれば、うるさくて迷惑です、心労が溜まります。それに、なんでもないような些細な変化について突然暴れられたりしたら、周りの人にとってはさぞ気味が悪く"うざい"ことでしょう。それが、本音。
 迷惑という事象、というか感覚一般について、その発生原因である相手が例えば建前のわかるひとりの常識ある大人だとしたら、視線や雰囲気で察してもらったり、言葉で指摘して直してもらったり、その迷惑度が客観的に低下するようこちら側で対応したりして、迷惑の発生原因を軽減し根絶するためのいくつかの手段が、不随意的自動的に講ぜられます。
 しかし、その迷惑が"やむにやまれぬ"事情を抱えたものだと判明した場合は、公然と無視したり、その現実を「なかったこと」と決め込んだりします。
 大人同士の"対決"では、相手方を一方的に徹底的に完膚なきまでに"やりこめる"ことができる可能性は、ほぼ皆無です。だから現実とその迷惑に中間線を敷いて、自分の妥協点をその境界線上に"ねじこむ"ことで、自分を取りまく世界の平穏を維持しようとするわけです。
 でも、迷惑の発生原因である相手が建前の分からない無常識的な、子どもであったら。大人に対して効果のあるさまざまな社交上のスキルを無効にする特性を持つ、子どもであったら。そこに存在するのは、むきだしの本音と無垢の本音が生々しくぶつかり合いかねない、裸の世界。お腹を空かせた欲望同士が相対する空間。相手を自分の本音に屈服させるまで終わらない戦闘。
 昨今世間を賑わせている児童虐待ニュースに容疑者づらして続々登場してくる、若すぎる親やそれほど若くもない親たちは、特別暴力的なわけでも、精神に異常をきたしているわけもないのでしょう、きっと。
 それはたぶん、膨大な情報に接することで強くなりすぎていった自分の「本音」に比して、それを防ぐ役目もある「建前」というものが、社会道徳の形骸化と共に弱まってしまっているからなのではないかと思うのですよ。
 子どもという存在のありのままをすべて受け入れ、本当の愛情をもって接していけばいいんだ、なんていうおとぎの国のキレイキレイなファンタジーは、いまどきの若い親には通じません。むかつくときはむかつくし、まじうざいときはまじうざいのです。
 本音しかもっていない、本音でしかぶつかってこない子どもという地上最強の相手に対して、実際的な力を親に与えるのは、建前。
 同世代の仲間意識を基盤にした社会性と、先輩世代より受け継がれた知恵を新たに吹き込んだ、IT時代にふさわしい建前、今日強く求められている最新バージョンのそれは、実は意外と古臭いところにあるのかもしれません。
 人間を遺伝子レベルで解き明かしてくれちゃっている最新科学、科学万能のこの時代にあって、生命の誕生と成長に関する神秘主義を復古させるべきではないかと思うのです。新しい古いもの。新しい道徳。
 流れ星を見たら思わず願い事を唱えてしまうような、お茶碗にこびりついたお米一粒たりとも残して食事を終えられないような、潜在意識的で宗教じみた良心レベルで、いのちという奇跡、子どもという感謝を肌身で感じられる道徳心を、建前名義で定着させるためならば、僕は悪魔だろうが核兵器だろうが、手段を選ばず方法を構わずやっちゃって欲しいとすら思ってます。
 少なくとも、あるかどかうもわからない北朝鮮核兵器なんかより、上の階のガキほうがよっぽど"やっかい"な存在だし、そのガキが女神でもなければ天使でもかわいい幼女でもない、母曰く「小憎らしいブサイクなガキ」らしいので、まず間違いなく悪魔。
 ああ、上の階の自閉症児が年頃の幼女であったなら、僕をイライラさせるこの生活騒音は僕の脳内で瞬時に天使の歌声へと変わってしまえるというのに…。

 もちろん、いつも冷静に子どもに接することは無理です。怒りたくなったら、歌を歌うという人がいました。私は1,2,3…10まで数えました。少しは落ち着くことができますよ。*1

 成り行きと気まぐれで児童虐待問題について考えてみるとき、それは本質の問題ではなく程度の問題であることと認識しなければなりません。性格・精神的に致命的な問題のあった若い親が自分の子どもを殺してしまった、という特異な事件では決してないのだということです。
 家庭という閉鎖的な空間で、親として絶対的権力を持った人間が一方にいて、その親の完全な庇護の元に子どもがいます。建前を知らない子どもは、親に対し常に無垢の本音をぶつけてきます。元々建前の弱くなっている親は、高度情報化社会の要請により膨張しきった本音をもって、"つい"反撃してしまいます。
 生々しくぶつかり合うこの本音の戦い。そもそも子どものほうから仕掛けてきたんじゃないかという被害者意識と、子どもは自分のものなのだから何をしてもいいという古今伝来的な確信、地域のつながりが薄れてしまったことによる家庭の孤立化と、個人主義の延長としての閉鎖性、「自分の王国」として自らの権力を維持するためという口実、殴られたことがないから痛みが分からない→暴力の効果性を計る客観的基準がない、などなど。
 子どもが死んじゃったり重傷を負ったりして事件化し表面化した児童虐待問題は、現代において普遍的なそれらの問題に起因しているんじゃないかと考えられるという意味で、それは本質の問題ではなく程度(不幸な偶然)の問題ではないかと思えるのですよ。
 しかし開き直って考えてみると、親に肉体的な暴力を振るわれる児童虐待は、むしろマシなほうなんじゃないかと思います。本当に深刻なのは、外目からその傷が見えない精神的な暴力による児童虐待ですから。
 ぶたれれば、殴られれば痛いです。体の痛みは本人が一番よくわかるでしょう。痣ができれば周りの人もそれなりにわかります。けれども、「お前なんか産まなきゃよかった!」に代表される親の言葉の暴力や、両親の不仲による険悪な家庭の雰囲気、あるいは度重なる夫婦喧嘩に巻き込まれることで負い続け、成長とともに徐々にえぐられていく傷。
 そういった心の痛みというものは、えてして本人も気づかないことが多く、もちろん周りが気づいてくれることはないことでしょう。

「生きる」
先生が教えてくれた
生きるとは どういうことか
六年間過ごした 学校で
最後の授業の 教室で
そっとふるえた声で
私達に教えてくれた
それは可能性があることだ と*2

 子どもたちにとって、未来の可能性の種を植え、芽生えを慈しみ、希望や夢を育み成長を助けるはずの家庭とその根であり幹である親が、その可能性を奪っていく。
 物理的暴力によって子どもの、腕力を奪い視力を奪いついには命さえも奪ってしまった親は、社会によって厳罰に処せられるだろうけれども、精神的暴力によって子どもの、未来をつかむ腕(かいな)を奪い夢を見つめる眼(まなこ)を奪いついにはいのちの温かみさえも奪ってしまう親は、どれほどの名検察官であろうともその罪状を立件することは不可能なわけですから。
 というか罪を罪として認識する主体がいないのだから、それはそもそも罪ではないのかもしれませんね。
 だからこそ、親子愛だなんてご大層なキレイゴトじゃなく、親に実際問題としての"一線"を越えさせないための建前と、それを担保する神秘主義、この際道徳教育だなんて剣呑なこと言っていられないよ。例えば、「子どもに〜したら地獄に落ちるぞ」とかそういった、露骨に迷信っぽいけれども誰もが習慣的に従ってしまうような、宗教じみた義務感を支柱にして建前を維持していくことが必要なのです。
 理想としては、シートベルト着用が義務化されて、なんとなくシートベルトを着けて続けて、気がついたら、シートベルトを着けずに運転しようとするとどうにも落ち着かないような、ささやかな罪悪感にいたたまれなくなるようになっている、そんなケースで。
 現代人のなけなしの良心に拵えたちっちゃなポケットに、そんな胡散臭い"脅迫"で強引につくり上げた建前を、無理やりにでもねじ込んでやりたいのです。子どもたちにとって最低の最低を極めた、まぁ最悪よりは多少マシかなという妥協点を。
 壊れかけた新米親世代の建前修復事業。
 親子愛とか感動系は復旧した建前の"あとづけ"ですよ。誰も感動ストーリーを堪能したくて子どもを作る決意をするわけではないのでしょうから。子どもが手元から巣立っていった後日談、親の回想シーンにおいて初めてそれらは感動仕立てで語られるべきネタなのですから。
 小泉首相靖国神社参拝問題で政教分離の原則がどうとか議論されているけれど、むしろ今の日本は、子どもをたくさん産んでちゃんと育てることで自分が救われる「子育て教」(仮)を国教にして、政教一致体制で運営されていくべきだね。いや真面目な話。
 真面目な話、本音ではうるさくて我慢ならないはずなのに「気にしなくていいんですよ〜」などという結構な建前をかまして、それで自分はなんて偉いんだろう、なんて素晴らしいんだろうと自惚れられるウチの母親のような心理回路(いい面の皮)がマジオススメ、というのをオチにしたいわけなんです。なんだかよくわからなくなってきましたが。
 まぁウチの母ちゃんも、決して良い母でも良い妻でもなかったんだけどねーw(益々なんだかよくわからない…)

*1:5/16付読売新聞

*2:5/9付読売新聞