親知らずと食事に求めるものとぬるま湯の幸せ

 痛み出していた親知らずは、歯医者行くのが面倒なので放っておいたら、痛くなくなっちゃいました(てへ)。
 今となっては親知らずが痛かったという事は、その最中に食べた吉野家の豚生姜焼き定食の、豚肉が異様に硬くて辛かった事と、いつもトーストとコーヒーだった朝食が、「かむのが辛い」という理由でコーヒーだけになった事との関連で、僕の記憶に残留していくことになるでしょうか。
 欲を言えば、もっと痛みが長引いて、食べる事自体が面倒になって、食事を絶つことで労せず体重が減ればいいなぁ、と思っていたのですが…。
 ちなみに僕の親不孝も、放っておいたら痛くなくなったようです。
 それはどうでしょう?母親に「親知らずが痛い」と話したら、「親知らずは虫歯になりやすいから抜いたほうがいいのよ」とアドバイスしてくれました。あの発言にはもしかしたら深い意味が…?
 自分が食べるためだけに作る料理に、自分がどれくらいの熱意を込めることができるかということは、自分の幸せのために、自分がどれだけの努力をすることができるのかということに、繋がってくるような気がします。
 僕は最近1日1食1コーヒー1カップ麺。その内の1食は缶ビール1本と冷奴とキムチとお好み焼き1枚とご飯1杯で固定しています。もう1ヶ月こうです。1食の食事のメニューを考える事すら、僕には面倒です。
 食事に美味しさとか楽しさを求め始めると、それは金銭的にも人間関係的にも途方がなくなります。どちらも僕には持ち合わせがないもので、やむを得ずそうしているという面は否定できません。
 食事に美味しさや楽しさを求めなければ、いつも同じメニューでも飽きる事はなくなります。豆腐なんてもう冬から毎日食べていますし(あの頃は毎日湯豆腐)。もちろん"ちゃんと食べられる"味という最低条件はつきますが。
 たまに母親と一緒に食事はするので、人間関係的にはまんざらでもないけれど、友達と食事したのはこの前の正月が最後でしたねぇ。焼肉とか!もう8ヶ月食べてない!ひとりで入れないのはなぜなの焼肉屋!?行きたい!食いたい!うおーっっ
 不幸にはなりたくないけれども、かといって幸せについても面倒なんですよ。まぁ、幸せがいったいなんなのか、あやふやなイメージでしか捉えられていないうちが実は、一番幸せな状態だったりするみたいですけどね。
 ぬるい幸せ。熱いわけでもなく冷たいわけでもない幸せ。
 極寒の屋外から戻ってきてお風呂に入ると、ぬるいお湯がすごく熱く感じられたり、熱すぎるお湯にばかり浸かっていると、冷たい水が恋しくなったりするけれど。それが熱いのか冷たいのかよくわからないという意味で、ぬるま湯の幸せ。
 熱いお湯や冷たい水は、少しの間しか浸かっていられないけれど、ぬるま湯はいつまででも浸かっていられるという意味で、それが幸せなのかどうなのか実際よく分かってないくせに、その状態をできるだけ長く維持したいと思わせる、小癪に貪欲なぬるま湯の幸せ。
 適当なのに、執着。
 そういや、「ぬるくなるものをぬるくする事ができる」という微妙すぎる"魔法"が使えるとっぽい兄ちゃんが主人公のエロゲー*1、どうしたもんかな…。愛撫な主題歌のフルサイズが聴きたいんだけどな…。ヒロインの乳がデカすぎるのが嫌なんだよな…。
 最初飲んだときは美味しくなかったインスタントコーヒーも、それを捨ててそれまで飲んでいたコーヒーに買い換えるほどコーヒー好きではないので、飲み続けていたら、慣れてきましたし。
 コーヒーの味も、痛みも、幸せも、僕にとっては一律に"放っておけばどうにかなるだろ"的ジャンルであって、事実、これまでそうでしたから。
 もう僕の根本思想(世界観)であるといえるのかもしれませんねー。

*1:「魔法はあめいろ?」 http://sirius.product.co.jp/