記号化を望むプレイヤー ギャルゲーという自己欺瞞装置

 ギャルゲーのヒロインの着てるコスチュームって*1、胸元にリボンがあるのはまぁ当然としても、髪飾りにリボンは王道としてもですよ。背中に大きいリボンが付いていたり、首にリボンが巻いてあったり、ときどき太ももや足首にまでリボンが巻いてあったりします。
 まるでヒロインという存在をラッピングしてプレイヤーに差し上げているかのように過剰包装気味のリボンは、まさにその通りの意味でしかないんだろうけれど。
 先日、エプロンを着るとき、背中の紐をちょうちょ結びしているときにふと気がつきました、「ああ、それだけじゃないんだな」って。
 胸元とか、首とか、背中とか太ももとか足首は、本人は通常(無理をしないと)見ることができないじゃないですか。同じように、自分の顔も本人は通常(鏡等の道具を用いないと)見ることができません。
 自分の身体の部位や顔がかわいいかかわいくないか、自分的にはかわいいと思っていても、周りからどう思われているかは実のところよくわかんない。ひそかに自分では確認することのできない部分や方向から見ると非常にかわいくないかもしれない、という拭いきれない根本的な不安。
 でもリボンはかわいい、徹頭徹尾。文化的にそのことは本当だと信じることができます。自分自身かわいいと思っているし、どこから誰かから見られてもかわいいと思われているはず、その完全性と客観性に自信が持てます。
 自分が通常見ることができない場所に、リボンという"お守り"をぺたぺたと張りつけることで保証される、かわいさという対外的な防御は、同時に、自分が通常見ることができないところがかわいいという客観的事実となり、その事実は、自分の顔に関する根本的で慢性的な不安を、まるで身代わりのように引き受けてくれます。直接は関係ないはずなのに、身に着けたリボンが自分の顔を、自分にとってもかわいくしているのです。
 リボンというかわいい記号。文化というものが、「女の子は常にかわいく在らねばならない」という強迫観念によって彼女たちを絶え間ない攻撃にさらしておきながら、やさしい記号を与えることで、彼女たちを守ってもいるのです。
 エプロンの背中の紐をちょうちょ結びしたら、僕、なぜかちょっと自信が沸いたんですよ。「あ、僕ってちょっとかわいいかも」って。かわいいということが自信に結びつくという事を知って、ちょっとドッキリ。
 「女の子はかわいいものだ」「かわいいものが女の子なのだ」という、今となっては古典的で単純すぎる文化観を色濃く反映し、そして執着しているのが、ギャルゲーでしょう。リボンがかわいいというのは、それが現実社会とその文化から出たものであっても、ギャルゲーにおいて純粋培養され、永久保存され、貴重な資料として後世に伝えられていくのですよ。
 リボンをしているヒロインは子どもっぽくて、三つ編みをしているヒロインはおとなしいけれど勉強ができて、ヘアバンドをしているヒロインは活動的で等々の。ギャルゲーにおいて定着している記号と個性の関連性、それはとてもわかりやすいものです、誰にとっても。
 ここで持ち出したいのが、大げさですけど、実にわかりづらくはこびっている現実と、不可解な自分というもの。
 本来多様で複雑であるべき感性を、「萌え」という一語に集約することで単純化し、その感性を根拠に、所有物に対する愛着として生み出される、ヒロインのことが「好き」だという単純な感情を、それをありのままぶつけても"純粋さ"として許され、むしろ称揚できる青春と中高生たちを舞台に据えたギャルゲーにおいて。
 僕らは、プレイヤーとしてのわかりやすい感性と、わかりやすい感情、いわゆる記号化した自分を神々しく全肯定してくれるギャルゲーという場において、反射される「わかりやすい自分」という自らの像に、束の間の救いを得ているのではないでしょうか。
 わかりやすい自分。それはつまり自分のことをわかってもらいやすいということであり、自分を受け入れてもらいやすいということであり、自分という存在が不可解なものではなくなるということ。
 自らが記号と化すことに無条件で憧れるプレイヤーという自分を、無条件に記号化してくれるギャルゲーという自己欺瞞装置は、女の子がリボンに託す根本的な不安のように、わかりづらい現実と僕ら自身の不可解についての根本的な不安を、するりと受け止めてくれます。本当は全然関係ないはずなのに、勘違いもはなはだしいのに、そんな気がしちゃうんです。
 良質のギャルゲーをクリアした後、街に出ると、自分の中のどこかの風通しが少し良くなっているような気がしませんか?これはすごく気分の問題。そんなことねーよと言われればそれでおしまいの話。

現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられているいっさいが消滅し、すべてを問いなおす覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である

 現実と自分という存在を複雑怪奇にし、心身共に路頭に迷わせている無慈悲な現代という時代が、翻ってギャルゲーという"まやかし"で僕らに一抹の癒しを与えているのだとしたら。残酷という意味の真のあるじは、いったい何者なんでしょうね。*2

*1:実は一着何百万円もします。ファティマのスーツみたいなものなんですよ。だからいつも同じ服を着ているんです。最先端科学の結晶なので、汚れないんですよ。しかも脱がしやすいんです、最先端科学の結晶なので。

*2:最近、こういったギャルゲーに関する不毛で無意味な抽象論が多いのは、今プレイしているギャルゲーがひどくつまらないからです。逃げているんですよ。まぁ「最終試験くじら」の話なんですけどね。やっとこさ胡桃編と仁菜編と春香編を終了。でもまだ茂木姉妹とくじら少女と宇宙人がいるらしい…。うきゃ〜〜〜!もう放り投げたいっっ。
 それにしても。サーカスの作品は新しくなればなるほどくだらなくなっていくような気がします。「水夏」は結構良かったと思うんだけどな。「ダ・カーポ」のつまらなさ(未コンプのまま売却済)、というか相性の悪さに懲りてこの「くじら」はパスしておいたほうが良かったかなぁ〜。
 しかし、その不条理部分がちょぴっと気になるわけで…。これこそまさに不条理だわー。