僕らの最終試験くじら

あなたの選択はあなたの道。それがあなたという存在を決定し、あなたという一つの歴史を作る。忘れないで……例えどのような道であっても、それがあなたという人間の、一つの物語だという事を……

 そもそも不条理ばかりのギャルゲーというジャンルにおいて、いちいち「不条理」と銘打なければならないこの作品とは、いったいなんなのだろうな、と考えたとき、くじらの少女によるこの”警句”がなにがしかの真理を照らしだしているような気がします。
 プレイヤーは、ギャルゲーをプレイすることで物語を創出します。プレイヤーだけの、非言語的な物語。シナリオライターが著した物語は、ギャルゲーというゲーム表現媒体によってプレイヤーの元に届けられると、たちまち、プレイヤーによる物語へと引き継がれていきます。
 プレイヤーの物語について、シナリオライターをはじめ作品制作者はいっさい干渉することが許されません。それは、閉鎖・排他・自己完結的なギャルゲーというゲームシステムの根幹であり、決して安くない代金に見合うギャルゲーというゲームパッケージの対価です。
 そのプレイヤー物語にとって、ギャルゲー作品とは、「いかに不条理であるか」が競われます。不条理なヒロインのあり様、不条理な思考・感覚、不条理な世界そのもの、その総合である不条理な物語は、その不条理性を養分にしてプレイヤーの物語として豊かに育まれていくのです。
 そうして考えたとき、この「最終試験くじら」のいう不条理は、プレイヤーに受け継がれる前段階の、プレイヤーの物語となる前に、主人公によって、プレイヤーの与り知らぬところで、呆れてしまうほど無遠慮に壮大に育まれてしまっていることがわかります。その、真っ当なプレイヤーにとって「想定外」のこの事態に対し、謝罪の意味もこめて、いちいちパッケージに「不条理」と一言断りを入れているのではないでしょうか。
 「例えどのような道であっても」、萌えて許してね♪とでもいうかのように。
 しかし、この作品の"萌える"不条理について残念なのは、不条理が不条理として相対的に在るには条理がなければならないのに、その条理が決定的に不足していることでしょうか。たとえば主人公。旅芸人一座に所属するメンバーとして、1ヶ月しか当地にいられないというのに、強引に転校して無理やり学園モノにもっていこうとしている点がまず理解できません。
 しかもそうまでして高校生の身分を手に入れたというのに、授業は市井のギャルゲー主人公と同じく居眠りして過ごします。その分友達をたくさん作るのかといえば、自分からは何をしなくてもホイホイとお近づきになってくれる恋愛対象のヒロイン以外の、男友達は、存在感がなく得体の知れない馬骨が一匹いるだけ。声も入ってないし本当、どうでもいい感じです。
 一座で女形を演じている主人公は、その極めて風変わりな境遇だけに独特な性格設定がなされているのだろうかと思えば、サーカスの前作「D.C〜ダカーポ〜」の主人公と完全互換を誇っています。
 彼の、何もないところから和菓子を作ったり、他人の夢を見る特殊能力が、女形としての演技力に衣替えしたようなものです。女形としての素質の由来はついに明らかにされることなく、しかも彼の女形としての”特殊能力”は、「D.C〜ダカーポ〜」の彼が持つそれほど物語的に生かされてはいません。
 「D.C〜ダカーポ〜」のときも感じましたが、サーカス作品が据える主人公の没個性性と学園モノとしての面白みのなさが、序盤〜中盤を冗長にし、男友達のポジション的な低さや剥き出しのご都合主義は恋愛物語としての屋台骨を脆弱にし、1ヒロインにつき数回設けられているSEXシーンは、純愛モノとしてはちょっと度を越えた”こだわり”を示しながら1枚程度のCGで済ませようとしたり、描写が浅薄であっさりと終わってしまったりと、どうにもチグハグな印象を拭いきれません。
 そもそも恋愛ゲームとして稚拙であると、僕は指摘せずにいられません。
 条理があるべき主人公の視点が非常に危ういということ。ギャルゲー一般に通ずる不条理クオリティが低いということ。それらがこの作品のオリジナリティである、「主人公によって創出されたプレイヤー的物語」という不条理性をうやむやにしています。
 そのうえで、粗悪な舞台に丸投げされた感のあるそれは、物語の真実によって予定調和的に舞台そのものからひっくり返されるわけですが(ちゃぶ台のように)。その事実は、僕がすでに述べた「最終試験くじら」というギャルゲー作品の欠点や悪所など、都合の悪い要素もひっくるめた全てをひっくり返そうとしている姿勢に繋がりかねず、それが、この作品でいうところの「不条理」の本質だとするならば、それはもはや救いがたいほどの絶対的な卑怯さ。作品批評さえ一切受け付けないつもりなのでしょうか。
 しかしそれよりもなによりも、ちゃぶ台から零れて無残に打ち捨てられた”大切な人たち”のことを考えると、無邪気なボーイ・ミーツ・ガールでハッピーエンドを気取るのは、あまりに冷淡すぎじゃあありませんか。
 1番楽しめたのは(物語本筋とはあまり関係のない)神楽香倶耶編で、2番目に楽しめのはおまけシナリオの神楽香倶耶編で、1番感動したのはおまけシナリオの南雲紗絵編だというのは、あまりに寂しいじゃないですか。ねえ?
 心の琴線を撥ねてやまない叙事や、胸に大切にしまっておきたい叙情。劇中で著されるそれらの言葉たちは、主人公やヒロインのキャラクター性と乖離したものであっても、確かに僕の心に響いてきました。しかしそれらが作品のなかで生煮え状態なんですよ。物語からも離脱しているからこそ、むしろ僕は書き留めずにはいられなくなったのかもしれませんが。

「分かるんだ!少年!君がけが頼りなんだからな!上手く舞い続けろよ!薄氷を踏むがごとく……でも道は必ずあるはずだから……」

 少年はゲームデバイスとして舞い続けました。何度も同じテキストを読み何回もプレイを重ねる舞台としての、さまざまなヒロインにまつわる悲喜こもごものエンディングを巡る地方公演としての、ゲームシステムを、舞果てた後に、彼女と出会った。ゲームシステムが機能停止することで開始される、一度っきりで最後の、彼女を幸せで満たすための本公演。
 そこで初めて受け継がれ、僕らプレイヤーが舞い始めることになる、つまり最終試験。主人公の手を離れた妄想という絶対時空(くじら)で、生煮えの言葉たちと、悲しく打ち捨てられた一座のみんなを救うためにも、僕らは舞わなければならないのです。一度っきりの、ただがむしゃらに。
 僕らにとっては覚めない夢、落ち(の)ないくじらのなかで、しかしその道は本当にあるの?僕らはいったい誰に出会えるというの?誰が僕らの最終試験くじらを検査し発表してくれるというの??
 くじらは哺乳類だけど、人間じゃないのだから。そんなくじらなんざカリッカリの竜田揚げにして食っちまえっ!などという精いっぱいの不条理さで対抗してみる。きっとその答えは、たとえば夏に雪が降れば判明するんでしょうなぁ……。*1

*1:この作品の最強最高の不条理は、OPムービー視聴直後に強制終了してしまうバグを修正するためのパッチファイルで「ムービー再生禁止」モードを追加したサーカスのやりようではないかと思うんですよね。