僕の好きな、僕の虚構を僕に覆させてくれる選択肢

 御影仁菜シナリオ上(確定直後)のシーンに、こんな選択肢があります。仁菜先輩に、こう問いかけられます。

 「久遠寺さんは、世の中には取り返しの付かないことなんて無いと思うですか?それとも、どうしたって取り返しの付かないことは、やっぱりあると思うですか?」

 取り返しの付かないことはある
 取り返しの付かないことは無い

 こういう選択肢、僕は好きです。
 ヒロインの価値観に添った形で示され、好感度を直接増減させる選択肢。
 ヒロインの居場所をある程度限定して、その場所を選ばせることで間接的に意中のヒロインを告白している選択肢。
 どれを選んでも特にゲーム的変化はなく、プレイヤーに選択させるということ自体にゲーム的な意味をこめる選択肢。
 それらゲームシステム俎上の選択肢は、プレイヤーにとって選択するのに気が楽でいいですよね。意図的にヒロインの機嫌を取ったり損ねたりできるのは楽しいし、ヒロインをいくら追いかけようとストーカー容疑で捕まることはないし、つまりゲーム的(フィクション)の選択なので、僕らはいくらでも嘘をつけます。
 ギャルゲーとは、プレイヤーが嘘をつくゲームなのですよ。だってそうじゃないですか。1回目のプレイで結ばれたヒロインに対し、2回目以降のプレイでは冷たくあしらわなければならないのです。「でもそうしなければゲームを全部楽しめないから…」というコンプリート主義、ゲームという大義によって、彼女に対する罪悪感は隠蔽されます。
 プレイヤーは自分に対して嘘をついてますよね。ギャルゲーという商品の「正しい取り扱い方」であるところの、イベントCGやシナリオ・ルートを全て埋めるために、積極的には、本来ならば選ばない選択肢を、自らを偽ってプレイヤーは選択します。
 プレイヤーに嘘をつかせるゲームこそがギャルゲーだと定義しても、あながち間違いとはいえないでしょう。
 プレイヤーは自分に嘘をつくことで(自らをフィクショナライズする)、ギャルゲーの嘘(フィクション)を、受け入れることができるのです。それは嘘という共通言語。
 しかし、仁菜先輩は僕に問いかけてきます。「世の中に取り返しの付かないことは無きか否か」と。「取り返しの付かないこと」は、全く、全然、完璧に無いか、それともたったひとつでも、たった1欠片でも、たった1ミクロンでも世の中に有るのものなのかと、潔癖に問い掛けてきているのです。
 それほどまでに現実という崖っぷちぎりぎりまでに追い詰められた選択肢に対して、極限まで研ぎ澄まされた真実という息吹を要求するゲームという嘘に対して、もはや僕は自らのフィクションを維持できません。
 ギャルゲーのプレイヤーとしてではなく、一個の人間として、どうしようもなくこの選択肢を選んでしまいます。だってしょうがないじゃないですか。

 取り返しの付かないことはある

 「うーん……そういう事があるってのは、否定できないね。起きてしまった事を、完全に無かった事にする、なんて事は、できないだろうから……」
 「やっぱり、そうですよね……。仁菜も……そう思うです……」
 自分の都合の良い想い出だけを選んで、嫌な事を忘れる事が出来るのなら、もっと人は楽に生きていけるだろう。それが出来ないから、どうしても立ち止まってしまって、動けなくなる時があると思う。だから、本当に辛い事が起きたとき、全てを忘れてしまうというのは、ある意味でとても幸せな事なのかもしれない。
 「ただ、いつまでも楽しい事ってのが無いみたいに、いつまでも苦しい事も……実は無いんじゃないかなって思う」
 「そうですね。うん、そうですね」*1

 この選択肢の選択いかんによってゲーム内容ががらりと変わってしまうほど、重要なシーンではありませんし、そもそもプレイヤーの選択いかんでどうこうなってしまえるほど、作品として成熟していないし、野心も実験性も感じられはしません。
 このシーンは、御影仁菜という女の子の深刻なテーマ性をちょっと匂わせる、その程度の意義しか見出せません。
 でも、それでも、ギャルゲーに救いがあるとしたら、きっとこういうことなんじゃないかなと思います。ギャルゲーでカウンセリングできるとしたら、きっとこういうゲームデザインになるんじゃないかなと思います。
 嘘で塗り固められた自分の中から、信頼形成された他者との穏やかな会話を通して、真実の自分を見つけていく作業がカウンセリングだとするならば、すっぱいもの好きで、梅干入りのおにぎりを嬉しそうに食べている仁菜先輩と、主人公の、「取り返しの付かないこと」についてのこのやりとりはまさに、プレイヤーにとってのカウンセリングに他ならないという指摘は、あながち暴論ではないと、僕は信じたいところです。

 「そうですね。うん、そうですね」
 僕は仁菜先輩のこのセリフに、本当に久しぶりにシンクロニシティを感じました。選択肢ひとつで作品に対する評価ががらりと変わるということは、けっこうあるのかもしれませんねぇ。

 恋愛におもねるのではなく、物語に準拠するのではなく、ただ、本当になんでもない、自分の価値観に沿った形で選択肢を選択することで、選択することが、コンプリート主義に繋がり、ゲームという大義を全うすることになるようなギャルゲーをこそ、僕は無条件で求めているのかもしれません。
 昨日のエントリーで引用したくじらの少女の警句は、わざわざゲーム空間を超越してプレイヤーに直接語りかけてくる、説うてくる、僕にとってのあられもない現実に対する心構えでありながら、それはわざとらしくも大きなお世話であると同時に、ゲーム上での選択肢程度ではそこまでの真実を表現することはできないという、「最終試験くじら」というゲームシステムの限界を告白していることにもなります。
 痺れるセリフを彼女に吐かせながらその実、さじを投げているのです。
 「どの娘が好きなのか」の前提としての、「どうして好きなのか」という思想。世界と、自分についてのプレイヤーの認識と理解を選択肢が問いただし、プレイヤーの形なき心(とでも呼べる何か)を、ゲームシステムが形ある物語へと昇華させていく。そこにあるべきは、分岐するのではなく、変化する物語。
 プレイヤーがいっさい嘘をつく必要のない恋愛ゲームが成功したら、それは本当の意味での「恋愛」ゲームになりえるのではないかなと、僕は予感しています。

*1:主人公のこの見解は、実は自身の境遇のことを言い表していたということが「南雲紗絵編」で判明しますが、それはまた別の話