萌え4コマ論 4.5コマ目の自笑行為

 やれバストが大きい小さいだのといったコンプレックス的なもの、ツンデレや天然、お嬢様といったキャラクター的なもの、メイドや猫といったファッション的なもの、物語表現的なものなど、オタク業界全体で創製され定着していった膨大な"暗黙萌"*1
 それ自体でそれ自体を煽るという、同一点上をぴょんぴょん飛び跳ねるだけの"ナルシスティックないやらしさ"(≒同人誌)から抜け出し、それを手段(ネタ)とみなすことで身内的な笑いを身内に提供する、閉じられた世界であるからこそ飄々と自在に、意地悪く豊かに広がっていく笑いのスタイル。暗黙萌によってゆるぎなく透明に規律された世界自体の安定性、それらを包括する作品としての個性。
 そういった偏執的な濃さを迸らせ、同一点上から同一円上へ広がっていくのが、萌え4コマの方向性、あるいは将来性なのではないでしょうか。少なくともまんがタイムきらら各誌一連の作品を読んでいると、そんな印象を抱きます。
 萌えという事象に自覚的であり自虐的でもある読者層にとって、まんがタイムきらら萌え4コマの笑いのスタイルはたぶんに毒気あるもので、その毒気が、僕にはむしろ心地よい。4コマ目で笑うのは、作者の作家としての純粋なセンス半分、残りの半分は、自分のなかの萌えという珍妙な現象を相対化してウケているから。
 オタクとしての自分(4.5コマ目)がいて初めて、萌え4コマは成立しているといえるのです。
 根源的に性的でありつつその性の表出(エロ)を巧みに隠匿する、萌えの基本的性質にのっとり供出される無垢なヒロインたちと、その織り成すオタク向け漫才。とはいえ、恋愛ではなく、笑いを媒介してヒロインたちは僕らと向かいあっています。恋愛ではないのだから、彼女たちは最後まで脱ぐ必要がありません。
 たとえば、少年誌などを読んでいてたまに出てくるヒロインのおっぱいに物語が中断(終焉)し、世界がおっぱいで閉塞してしまったような感じになったことって、ありませんか?それは、無意識のうちにヒロインに性的なものを要求し、性的なありようを強制していたことにはっと気づかされた瞬間。
 僕はそもそもからっきしのおっぱい星人なので、あのインパクトが強烈すぎて参っちゃうんですよね(関係ない)。
 僕らは彼女たちに何も要求しない、強制しない。おっぱいが出てくるまでもなく、物語はコマによって中断(終焉)され、暗黙萌によって閉塞しています。そこではただ、僕らが勝手に見い出すだけなのです、彼女たちという笑いを。
 僕らとは関係のないありのままでヒロインたちは漫才を繰り広げ、彼女たちとは関係のないありのままの自分に僕らはウケる。そういうこっけいな劇場装置《舞台・→観客》が、実は萌え4コマの正体なのかもしれませんね。
 

*1:暗黙知の知を萌と入れ替えて、さっき思いついた造語。明確に言葉には表せないが(めんどくさいから)ジャンル的妄想性を支えている劣情を基盤とする感覚。