「Clover Heart's」は「信長の野望」っぽくないからツマラナイ

 「最終試験くじら」後、勢い込んで「サナララ」に突入しようとしたものの(ちょっと最近の僕ってばエロっ気旺盛)トラブルでプレイできなくて、そのために用意していた時間を(エロゲー以外のことをするといった)無為に過ごすのもなんなので、「Clover Heart's」をプレイしようと思いました。
 実は白兎編しかクリアしてなくて、夷月編がそっくり放置してあったのでそれを済ませようと思ったのだけれど、どうしてか、4章あるうちの1章もクリアできず挫折してしまいました…。
 シナリオ自体は決して悪くないんですよ。むしろかなりいい、それはわかる。でもどうしてか、すごくつまらない、というよりやる気がしない。なんでなんだろ。そう考えたとき、僕ははたと気づきました。
 「『Clover Heart's』は、『信長の野望』っぽくないからダメなんだ」と。


 恋愛ゲームって、要は「信長の野望」だと思うんですよ。「信長の野望」って、戦国大名になって諸国を征服して、天下を統一するゲーム。「信長の野望」でいうところの征服すべき国々は、恋愛ゲームでいうところの"落とすべき"ヒロインです。北は蝦夷地から南は種子島まで、さまざまな国があるように、幼馴染から学園のアイドル、子供染みた後輩から大人っぽい先輩まで、さまざまなヒロインが登場します。
 そのなかで信長は、次々と敵国に攻め入ることで勢力を拡大して、ゆくゆくは天下を統一することを目指すわけです。順々にヒロインと恋愛的に成就することで作品理解を深めて、ゆくゆくは作品テーマを自分のものとすることを目指すわけですね。
 でも、だからといって、どうして信長は敵国に攻め入らなければならないのか、天下を統一しなければならないのか。それは、「信長の野望」というタイトルが雄弁に物語っています。信長の野望である以上、敵国は「攻め取らねばならない国」であり、天下は「自分が奪わねばならないもの」という神聖不可侵・独立独歩の目標となります。
 その疑いなき、あるいは単純明白な目標が設けられるゆえに、「信長の野望」のゲーム性は不動とものとなり、であればこそ、こうしてゲーム草創期から今日に至るまで同シリーズが続いているゆえんです。
 では、どうして主人公はヒロインを恋愛的に攻略しなければならないのか。作品テーマをを自分の物としなければならないのか。それは「恋愛ゲーム」というジャンルが雄弁に物語っています。恋愛ゲームである以上、ヒロインは「恋い従えねばならない対象」であり、作品テーマは「自分が掴まねば誰も教えてくれないもの」という、神聖不可侵・独立独歩の目標になりえます。
 恋にしろ愛にしろ、言葉で説明できるほど論理的なものではないのだから、つまり自分が見い出さなければなりません。そういう意味での絶対的なプレイ動機と、疑いなき、あるいは単純明白な目標が設けられるゆえに、恋愛ゲームはときメモの昔から今日に至るまで連綿と受け継がれているのです。
 とはいえ、絶えず敵国に攻め続けていかなければ、絶えずヒロインを恋い求めていかなければゲーム性を維持できません。主人公が、たとえば勉学やスポーツなど恋愛以外のことに夢中になったり、生活することに追われたりするというようなことがあってはなりません。信長が茶器収集や女子(おなご)との情事にばかり耽っていたり、そもそも天下なんてどうでもいいというようなことは、あってはならないのです。
 だからこそ、滅ぼすか滅ぼされるか弱肉強食の戦国時代であり、野望ある信長があり、無条件で毎日女の子と顔をつき合わせるスクールライフであり、思春期然とした10代の主人公があるのです。
 真正面から高らかに宣言するゲーム性と、背後から羽交い絞めにするゲーム性。好むと、好まざるとによって、「信長の野望」と「恋愛ゲーム」は圧倒的に存在しているわけです。
 結局のところ、敵国があるから信長は野望を抱けるのであって、ヒロインがいるから主人公は恋愛することができます。そういった意味で、敵とヒロインが実は本当の主役(中心)。所詮信長は代替可能な一主人公に過ぎないから、「信長の野望」というタイトルでありながら伊達政宗でも徳川家康でも、足利義昭でもプレイできます。
 恋愛ゲームの主人公はプレイヤーにとって代替可能な、というよりプレイヤーにとってただの器に過ぎません。それは着心地がいいか悪いか、その程度の尺度でしか測れないモノです。
 信長が最初に治めている国は尾張ですよね。恋愛ゲームの主人公もゲーム開始当初からすでに、彼のことを悪からず想っている幼馴染や後輩がいるものです。そして信長はまず美濃国あたりに攻め入ります。野戦突入ですね。この戦闘シーズが恋愛ゲームでいうところの「選択肢」に当たります。
 やれ「君の私服初めて見るけど、可愛いね」とか、「美味しいよ!」とか、「君のことを信じているから」とかいう好感度上昇にとって有効な選択肢を重ねるように、歩兵には騎馬隊をぶつけて、鉄砲隊は槍隊の後方に配置して、傾斜の激しい山間部では上方を取ったほうが強いとか、そういう有効なテクニックを駆使して戦いを有利に導こうとします。
 そしてなんとか野戦に勝利すると、次は攻城戦です。恋愛ゲームでいえば、SEXシーンですよ。篭城戦となると、もう守備側と攻撃側の勢力差は歴然としていて、守備側はできるだけ少ない被害で長期間戦闘を維持することにより、敵方の消耗と、それによる撤退や和睦を企図します。
 ベッド上に仰向けになって弱弱しくうずくまっているヒロインは、攻め手である主人公との立場的な力の差が歴然としていて、ヒロインはできるだけ恥ずかしさや痛みを少なく抑えながら、主人公の性的満足と、それによる事態打開(通常空間復帰)を目指します。攻撃側によって破壊されるべき城郭は、主人公によって脱がされるべきヒロインの衣服であり、守備兵によって堅く閉ざされた城門は、ヒロインによって堅く閉じられた大腿部。
 そうして攻め落とされ自らの支配国となった領地は、新たな敵国に対抗するための前線基地であり、兵糧や金銭を供出させる補給基地ともなります。1人のヒロインシナリオをベストエンドで終えたプレイヤーは、そこで得られた物語理解(解明された謎)や作品のテーマ的なもののかけらを糧に、別のヒロインを攻略し始めます。
 Aヒロインクリア後にBヒロインシナリオを読むと、「ああ、あのaがああだったから、このbはこうなるのか」といった2次的な理解、論理的なつながりが生まれます。より強固となる領国経営と、より磐石となる作品に対する愛着。
 攻め取った領国、そこに接することで新しく攻略可能となる敵国、それらを次々と滅ぼして、その過程を積み重ねることによって、信長が天下統一を目指すように。攻略を終えたヒロイン、それによって攻略順序に関する縛り(条件)の一部が開放され、あるヒロインにおいては攻略可能となり、その過程を積み重ねていくことによって、プレイヤーは作品のコンプリート(完全理解)を目指します。
 しかし、「信長の野望」と「恋愛ゲーム」を比較して根本的に違う点は、2回目に敵国へ攻め入るとき明らかになります。「信長の野望」にとって、攻め滅ぼした国はその財と人全てが、信長の天下統一にとって直接的に有益となるのに対し、「恋愛ゲーム」にとって、ベストエンドを迎えたヒロインとそのシナリオによって得られたかたちなきものが、別のヒロインを攻略するに当たって主人公に直接益をもたらすということはありません。ありえません。
 繰り返される劇中における主人公は、1回限りの使い捨て的存在に過ぎず、2人目のヒロインに攻め入るとき、2人目の新たな主人公がそこにはいるわけで、そのとき「信長の野望」でいうところの信長は、プレイヤーにバトンタッチされます。いや、最初から「恋愛ゲーム」にとっての信長とはプレイヤーに他ならなかったのかもしれません。
 信長の一貫性と、偏在する主人公。そして両者の間を揺れ動くプレイヤー。であるからこそ、「信長の野望」ではリセットを多用し、「恋愛ゲーム」ではスキップを多用するのでしょうね。そう、「ここにプレイヤー(僕)がいるんだよ」とでも主張しているかのように。


 「『Clover Heart's』は『信長の野望』っぽくない」。
 夷月編で主人公は、物語開始時点ですでに榊円華というヒロインを完全支配下においていて(訳有)、すぐ登場してくる御子柴莉織は、なぜかはよく知らないけれどいきなり主人公の従属国志願状態。
 世界(天下)にヒロインはこの2人しかいないのに、その2人は主人公にとって「攻め入る必要のない国」となってしまっているのです。天下統一すべきなにものも、実はそこにはなかったのです。
 これのどこが面白いのか。
 もちろん、両想いになってからの2人の間で起こるさまざまな物心両面の障害と、それを乗り越える想いの力みたいなかたちなきものを、きっと豊かで瑞々しいそれを得られるんだろうということは想像に難くないのだけれど。
 しかし、既に天下を統一していて、その後の領国経営、例えば農民の一揆一向一揆、家臣の反乱・謀反を平定したり、飢饉や疾病、台風や地震といった災害に対処したり、家臣の取立てや石高割り振りに悩んだり、正室と側室の諍いを仲裁しつつ街娘に手をつけてしまったり、そういうてんやわんやなゲームが果たして面白いでしょうか。
 いや、それはそれで実に面白そうだけれどw。でも天下統一ほどに揺るぎなきゲーム性(ゲーム的目標とプレイ動機)が見出しえないのは確かでしょう。つまり僕が「Clover Heart's」という良質の「恋愛ゲーム」をプレイする気が起こらないのは、そういうことではないのかなと、思ったわけです。なにしろ攻めるべき"敵"がいないのですから。
 僕にとって、物語(テキスト)を楽しむ(読む)ということは、攻めるべき敵ではなく、大したゲーム性にはなりえないのだなということを確認したのでした。まぁ、わかっていたことではあるのだけれど。