聴覚の贅沢について

 静かなところに行きたい。最近の僕はよくこう思います。より詳細に表現すれば、僕が望まない一切の音を聞かずに済む場所にぐだーっ寝転んで半日くらいぼーっとしていたい、そう、欲するのです。
 僕の住環境では、直上からの生活騒音、道路からの交通騒音、猫の鳴き声、などひっきりなしで大量の不快音が溢れています。しかもそれらは共通して、僕に無断で不意に僕の耳へ寄越してきます。覚悟もへったくりもあったものじゃない。自分の五感のひとつが自分の意思によらず悪意的に占有されるのって、考えてみればあまりに理不尽なことじゃないですか。何も騒音おばさんの例を引いてくるまでもなく。
 僕は基本的に、自分の意思で食べたいものを食べて、食べたくないものは食べません。触るのもそうでしょう。見たり嗅いだりすることは、それと比べれはあまり意思どおりにできないことだけれど、それでも見たいものを見、見たくないものはまぶたを閉じることで"被害"の拡大を防げるし、匂いについては鼻をつまむことができます。そもそも匂いなんて大抵すぐ消えちゃうものですしね。
 それなのに、聞くのは、どうしてこんなにも思い通りにならないんだろう。直上からの生活騒音も、道路からの交通騒音も、猫の鳴き声も、治まる気配はまるでなくて、耳を手で塞いだ程度じゃたいして効果はありません。というか両方の耳を両方の手でずっと塞いでるのはつらいです。だから、諦めてしまいます。すると全然聞こえてきます。聞こえることって、どうしてこんなに無防備なんだろう。
 なんていうんですかね、不快な音は頭にガンガン響いてきて、心地よい音は体にすっくと染み渡るんです。まるで火事のときの煙みたいなものです。体に有毒な煤煙は天井から溜まっていくんでしょ。耳に有害な音もだから体の上(頭)に行きたがるんですよ。まったく、煙と騒音は高いところがお好きなのね……。
 五感の贅沢というものについて。
 僕は思うんですよ。味覚の贅沢は、美味しいものを食べること。触覚の贅沢は、きっと、好きな人の体(おっぱいとか!)に触れることなんじゃないかな。嗅覚の贅沢は、花の香りを嗅ぐことだったり。視覚の贅沢は、美しい自然や素晴らしい事物を見ることかも。味覚触覚嗅覚視覚の贅沢は、共通して「何かを得るということ」だと思うんです。
 でも聴覚にとっての贅沢は、美しい音楽を聞くことじゃなくて、心地よい自然の営みを聞くことでもなくて、きっと、「何も聞こえないこと」なんじゃないかって。そう思うんですよ。つまり「何も得ないということ」。耳は正常に機能しているのに、何も聞こえない状態、それが、聴覚にとっての贅沢なんじゃないかなって。そう思うんです。
 無原則にほぼ全てのものを得てしまわざるを得ない感覚器だからこそ、全ての音をなくすことが、贅沢になる。もちろんそれは、器質的で不可逆的な話ではなくて、「無音を聞く」ということ。CDを再生しているのにボリュームをゼロにする楽しみ。富豪の娘が貧しい友達の家に一泊してみる面白み。例えばそういう系の贅沢なんです。
 大草原とかに体を大の字にして寝転がりながら、何も聞こえない。音というものを聞かない、無い音を聞く。何もなーんにも聞こえない場所で、でも耳をとびきり澄ませてみると、かすかに聞こえる風が葉を揺らす音、はるか上空に滑翔する鳥の鳴き声、小高い丘にそびえる大木の枝に乗った美幼女の、愛らしい歌声。これぞまさに聴覚的贅沢の最高の堪能方法ですよね。
 ま、これを翻訳すると、ただ、なんにもないところで、ただ、ぼーっとしていたいだけ(+妄想)。そもそも旅無精の僕だけれど、何もないところでぼーっとするために旅がしたいとは、常日頃からよく思っています。観光名所とかはどうでもよくて、現地到着即旅館にチェックインして、でも温泉に行くのが面倒で、夕げの時間まで、部屋の座椅子にもたれて窓の外の風景をぼーっと眺めている、そんな時間が、欲しい。
 でも、何もしないためにどこかに行くというのはひどく馬鹿げたことなんじゃないだろうかと、間抜けな発想なんじゃないだろうかと、思ってしまうから、僕は僕の部屋で何もしないことを選んでしまうのです。
 これがきっと、僕が引き篭もりであるところの論理的整合性。人間が人間らしくあるためには、まず打ち捨てなければならない理屈があるんだーよなぁ。きっと。
 それはともかく、ちょっと思い当たったのだけれど、リストラで1人当たりの仕事量が増え、ますます忙しなくなっている社会人の皆さんにとっての贅沢と、聴覚の贅沢は、もしかするとどこか似ているのかも、しれませんね。