幸せな?失恋

 30歳を過ぎて独り身の僕を案じてか、友人が知人の女性を紹介するという。
 「自分が既婚者でなければ結婚したいと思うほど、ステキな女性なんだ」
 僕は、その言葉を聞いただけで、まだ顔も知らないその女性が気になる存在になってしまった。
 メールで友人から彼女の名前を教えてもらい、心がときめいた。小出しに送られてくる彼女の情報に一喜一憂した。
 数日後、待ちに待った彼女と会食する時が来た。
 想像通りのステキな人だった。変な話、初対面というのに僕はすでに恋していたから、その気持ちの温度差が仇になった。
 大いに空回りした結果、再び彼女に会うチャンスは与えられなかった。
 冷静になって考えてみると、友人が好きだという相手なら自分も好きに違いないと思いこんだのだろう。
 同時に、そんなに無条件で信頼できる親友がいることに感謝した。ふられたというのに幸せな気持ち。
 こんな失恋なら悪くないかもしれない。*1

 その親友さんが既婚だというのがつくづく残念でしたね。恋に破れて真実の愛に目覚める、とか?
 結局、ギャルゲーって、「変な話、初対面というのに僕はすでに恋していたから、その気持ちの温度差が仇にな」らない、むしろ出会う前からヒロインに恋しているプレイヤーがいるからこそ、成り立つ変な話なんですよね。それ以上に、その存在が誕生する前からプレイヤーに恋をしているヒロインであるわけで。その設定的な運命性(暗黙のやさしさ)を依り代に、僕らは束の間恋愛という甘い夢を見ているのです。
 その友人を主人公に見立てると、確かに彼は彼女の情報を劇中で小出しにプレイヤーに教えてくれます。そうして、主人公が好きだという相手なら自分(プレイヤー)も好きに違いないと、最終的に無条件で思いこむことができるから、思い込んでもらうことができるから、ギャルゲーはゲームとしての存在意義(パワー)を得られます。
 実は、劇中で主人公が教えてくれるヒロインの美点と、主人公が彼女のことを好きだということは、プレイヤーにとって本質的に異なり、直接には結びつきません。ヒロインの長所が、そもそも主人公にとって長所と映り、それを主人公が好ましいものと考え、この好ましさも含めた雑多的総合的な"妙"が、恋愛感情として昇華していく、主人公にとってのその一連の心理作用、つまり「どうしてヒロインのことが好きなのか」という言葉で説明しづらい感覚的な部分。プレイヤーの共感にとって最も重要な部分です。
 それを、無条件で信頼できる親友として主人公とプレイヤーを関係づけることによって、言葉による説明を省くことができ、なおかつ言葉で一切説明しないことが、しいては"好きという感情"を神聖不可侵なものとし、どのような疑念も挟めない絶対的排他的な真実として、暗黙のやさしさとともに、幸せな僕らプレイヤーの夢を隙なく保障します。主人公という親友がもたらす恋愛至宝主義。
 けれども、プレイヤーが恋しているのは、1人の(独立した)ヒロインではなく、主人公にとってのヒロインなのだから。主人公と接しているときのヒロインに、僕らプレイヤーはこんなにも恋焦がれてしまうのだから。たとえ彼が、そのままの意味での心の友とはいえ、プレイヤー自身とは言い切れなくて、ゆえにプレイヤーとは根本的に、永遠に失恋し続ける哀れな存在なのかもしれません。
 だからこそ、むしろ僕は幸せに失恋したい。恋愛ゲームにとって、幸せな失恋をすることこそが、矛盾するようだけれど、最高の贅沢のような気がします。最善の救いのような気もします。であるからこそ僕は、「僕と僕らの夏」を高く評価したいのです。そこには確かに、幸せな失恋と呼べるものが、描かれていたから。*2