プレイヤーの死を、信じなければならないということ

ラグナロク・リアライズ

 ギルドのプリさんがお亡くなりになりました(マスターのリア友だったらしく、そこから聞いた)。直前までそんなそぶりは欠片も見せなかったのですが、最後にギルチャで「言いたいことがある」と呼びかけて、それが僕がそのプリさんを見た最後になったのでした(そのとき、すでにご病気がかなり進行していて僕がログアウトして程なく息を引き取られたそうです)。
 どうして最後まで話を聞いてあげられなかったのだろうか、もっと早く何かに気がついてあげられたのじゃないか…そう思うと心は乱れるのでした。

ラグナロクオンラインという仮想空間とは、プレイヤーが本質的に不存在(いないこと)であることを当然として成り立っているといえます。
いわゆるパッケージングされた家庭用ゲーム機またはWindowsパソコン向けゲームソフト(オフラインゲーム)は、開封して、ソフトをゲーム機にセットしまたはパソコンにインストールして、電源を入れまたはソフトを起動しなければ、まがいなりにも仮想空間は成立しません。
 ゲーム作品がプログラム既定上描き出す世界と、物語にとって、プレイヤーの存在と操作は絶対条件であり、1人のプレイヤーを主とし1個のゲームパッケージを従とするこの主従関係は、他のプレイヤーと他の1個のゲームパッケージのそれとは一切干渉し合わない、隔絶・独立した閉鎖系。プレイヤーが目を閉じるだけでたちまちその仮想空間は存亡の危機に陥ってしまうのです。
けれども、ラグナロクオンライン(オンラインゲーム)にとってプレイヤーの存在は、絶対条件とはなりません。僕というプレイヤーが目を閉じようと、貴方というプレイヤーがトイレに行こうと、その仮想空間は変わらず存在し続けます。そこではラグナロクオンラインという仮想空間(ゲーム機構)が主であり、僕らプレイヤーが従であるから。メンテナンスやトラブルといった機構側の都合で、その仮想空間は理不尽に存亡の危機へ陥ってしまうのです。
僕という名をもったプレイヤーが参加しようがしなかろうが、貴方という名をもったプレイヤーが参加しようがしなかろうが、というよりプレイヤーが誰だろうが、誰もいなかろうが、ホルグレンはホルグレンであり、ラグナロクオンラインラグナロクオンラインであるというわけです。
主であるラグナロクオンライン、従としてのプレイヤーがその世界に参加することを許されるための"鍵"が、(市販されてもいる)ゲームパッケージ。その同じ世界の同じ目線で対等的共存的に関係しあうのが、プレイヤーたちであるといえます。
 プレイヤーの無名性を前提としたゲームシステムにおいて、名を必要とする(本人でなければならない)人間関係というものが成立しているということ、このねじれが、今回のテーマです。
プレイヤーが"本質的にいない"ラグナロクオンラインという仮想空間において。自分の意志でワイヤードに接続し、望んでそこに存在している僕らプレイヤーは、延々と刻々と揺らぎ続けながらも形成されているこの"へいちくりん"な世界と物語と、そこで育まれる対人関係において、そこに"在らなければ、在ることができません"。
つまり、自らのキャラクターとしての存在性は、ゲーム上に現時刻において存在(ログイン)していなければ、現時刻とそこから続く未来においてそれを証明することが根本的に不可能です。自分が過去において存在していたということは、チャットログなどを見れば誰もが容易に客観性をもって証明することができるけれども、現時刻にログアウトしていった人が、例えば明日の同時刻に存在しているということを証明するのは、実は他の誰にもいっさいやりようがなくて。それはただ、その人本人がログインして、自分の存在を世界と物語と友達とに主観的に証明していくしかやりようはないのです。
しかし現実空間において僕らは、過去・現在・未来においてその存在を証明することをいっさい必要としない存在であり、僕らはその存在を前提とした多かれ少かれの小さな現実(他人)に捕捉されています。僕らは過去において存在していて、現時刻において存在していて、明日もあさっても未来においても存在し続けていくであるということを、わざわざ誰に対して証明する必要はないのです。
たとえば会社の上司/学校の先生に明日の出勤/出席を連絡するのに、明日自分が存在していることをわざわざ証明しなければならないというようなことはないでしょう。それをわざわざしなければならないのが、ラグナロクオンラインという仮想空間のプレイヤーなのです。
ラグナロクオンラインのチケットは1ヶ月区切りであり、人にも寿命というものがあるし、末期がんで余命3ヶ月という場合もあるでしょうけれども。人は、生きるということについて期限を区切って"やりくり"していくのではなく、それら厳然としてある寿命や余命という期限を、まず敢然と打ち払うことで、初めて、生を生きていくことができるのだといえると思います。
 だからこそ、現実の僕らは存在が前提であり(奇妙にもオフラインゲームのそれと同じように)、期限に正確に縛られるラグナロクオンラインのプレイヤーという意味でも、不存在が前提であるといえるでしょう。
ラグナロクオンラインという仮想空間では、プレイしている今が無機的に連なっていくことでタイムスタンプとしての未来が生成され、現実空間では、生きている今が有機的に繋がっていくことで形而上の未来が実体を帯びていきます。その差異の根本にあるのは、自分という存在の拠り所となるべき、生活という概念。
生活というものは、僕らが生きていく限りしていかなければならないことであり、キーボードとマウスとディスプレイと僕とで切り取った矮小な空間に、自らの感覚をストイックなまでに閉じ込めることで、生活を排斥し、生きることを除外し、そうして初めてラグナロクオンラインという架空は、その世界を現出させることが叶います。
 生活というものが本質的に欠落し、また欠落しているからこそ成立しているともいえるこの仮想空間と、確立した純正プレイヤーというポジションは、いくらチャットで「今日の朝飯はパンだ」とか「今日学校でさー」という生活的な話を交わしても、実際の生活を吹き込むことはできません。それは自分の生活をわざわざ空想化して玩んでいるようなものであって、ある種のアイロニー。生活の話をすることでその生活は実際をなくし、除外され排斥された先にラグナロクオンラインという仮想空間が改めて見えてきます。
けれども、生活という思想がない空想世界において創造され、繋ぎ合わされた対人関係について、僕らはどう考えればいいのでしょう。
現実世界においてそうであるように、ラグナロクオンラインという仮想空間における対人関係についても、僕という名をもったプレイヤーが参加しなければ、貴方という名をもったプレイヤーが参加しなければ、それは成立しません。不存在を前提とした仮想空間、生活と切り離された世界であるのに、生活的関わりのない対人関係(今日何をするか明日どこに行くか互いに一切影響できない)であるのに、僕が僕でなければ、貴方が貴方でなければ始まらないオリジナリティ(かけがえのなさ)という、致命的なねじれ。
その潤いあるねじれを礎に、僕と貴方がともに信じることであらゆるものを生みだすことができ、ラグナロクオンラインという"へんちくりん"の内に本当の世界を作り、真実の物語を作るのだとしたら。プレイヤーの死(キャラクターではない!)という事実ですら、信じなければ"生み出すことができない"のです。
不存在を前提としたラグナロクオンラインという空想空間のなかの、存在を前提としたリアリティの対人関係。かと思えば、仮想空間のリアル、対人関係のフィクションもあります。ネカマに代表されるような、キャラクターを演じきるという対人関係のフィクションと、狩り方のマナーやゲーム進行における良識といった、仮想空間に見え透けるリアリティ。それらの混濁は空間全体に深く根付いてしまっていて、もはや潔癖に区分けすることはできません。
介入しあうリアルとフィクションによって一種混沌としたこの世界において、僕らは、リアルで最も信じたくない死という事実を、フィクションで一途に信じていかなければならない、信じることができなければ、昨日見かけたあの人は、今も明日もこれからずっとログインしなければ、世界の道理として当然に、不存在(="無")となるばかりなのです。そんな哀しいことが、残酷なことがまたとあるでしょうか。
真実ではないという多くの致命的な疑いを本質的に拭い去ることのできないその電子的な知らせを、最も受け入れがたいその事実を、ラグナロクオンラインという仮想空間をも包み込む人格的存在としての自分の、生活という思想(信念と呼べるもの)に懸けて、受け入れていかなければならない、死を、信じて、受け入れていかなければならないのですから。
思い込みかもしれない、思い違いかもしれないし、そもそも嘘かもしれない。そんな疑問・不安に満ちた空間で、孤独にそれを信じることで、ひたすら自分の喪失感をえぐっていくだけのですから…。
こうして、ラグナロクオンラインのなかのリアル―フィクション混在区域に漂いうだうだと悩んでいく先に、もしかしたら、車の中で練炭焚いて集団自殺していく人たちが事切れるまで抱いている、死という認識の現状(実際は信じていない死=自分の不存在)があるような気がしないでもありません。*1
我ながら悪趣味すぎてぐうの音も出ませんが、そんなようなことを考えてしまいました。いろいろと、ごめんなさい。

*1:【05/07/17-22:45補足】 現実感覚のない死というものがあるとしたら、まさに僕が今感じている(そのプリさんの)死というものがそれなんじゃないだろうかと。そうだとしたら、ラグナロクオンラインというフィクションでありアルの中の、リアルでありフィクションでもある人間関係において、死という事実を、垢バンの言い訳じゃねーの?といった疑いに陥らず、何が何でも信じ切ることで、それを受け入れていくこと。それは現実においても応用の利くチカラなんじゃないかなと、思ったのですよ。
 そのプリさんの中の人の死という事実を疑うように、現実では自分の死という事実ですら信じ切れていない人が(死ぬってもしかしてすげえ気持ちイイことなんじゃねーの?)、自動車の中で集団練炭自殺に及んでしまうのかもしれないなぁと、まぁそう思ったわけですね。