永遠の少年時代 願望と錯誤 仕合せなまやかし

 「少年事件をどう考える」と題された読売新聞の論考で、ヤンキー先生がこのようなことを述べられていました。

―「普通の子」「問題のない子」の暴発と言われる。
 「普通の子」と呼ぶこと自体、子供とかかわる大人の側の当事者意識の放棄だ。目の前に私がかかわる子がいれば、その子は「特別な子」だ。教え子を「普通の子」と呼ぶのは、特別なかかわりをしてこなかった証しだ。

僕が好んでよく読んでいた頃の少女マンガでは、たいていの主人公は、なんの取り柄もないけれど素直でやさしい普通の女の子でした。いたって平凡であったはずの彼女は、けれども物語が進むにつれて、実はすごくかわいい女の子だということが判明し、周りのカッコいい男の子たちの間でモテモテになっていって、三角関係に発展したりなんかしちゃってもう、壮大ににこっ恥ずかしくて、居たたまれなくなるくらいの極甘い幸せ、そんなところが僕は堪らなく大好きなんです。
今となってはブックオフで埃をかぶっている古きよき少女マンガを、考えてみると、それは「普通の女の子」が「特別な女の子」に変化(成長)していく物語だと大雑把に捉えることができるのではないでしょうか。それに対し最近の少女マンガは、僕はとんとご無沙汰ですけれども、「特別な女の子」が普通の幸せを手に入れていく物語なんじゃないかと、根拠もなくイメージしていたりします。
普通という概念が形骸化しているということを誰もが知っている世代。他のみんなとはちょっと違う素敵な自分(私らしさ)を演出しようとする攻撃心理と、流行のファッションを敏感に取り入れ他のみんなと同じでいたいという防御心理が、自分の中で絶え間なくせめぎあっているからこそ、霧散したはずの普通の幸せを夢見て、凡々としているからこそ安定したやすらぎを求めてしまうと予想できるからです。
女の子や子供たちは、もはや実体を失っているがゆえに、掴みどころのない漠然さで自分を覆い隠している普通という殻を、破ってきて、私という本当の特別を誰かに、親や大切な人に見つけ出して欲しいと本能的に待ち望んでいる存在なのではないでしょうか。
 子どもの成長というと、自ら殻を破っていくイメージがあるけれども、そこには確かに、誰か他者に破ってもらわなければ抜け出すことのできない殻というものがあって、受動的態度で救いを求めているだけではダメだとか、そういう次元の話ではないのですよ。
情緒的に、ときには情熱的に関わりあうことで成し遂げられる教育というものが、まず先生や誰かにとって、普通の子を特別な子へとそのまなざしを変化させ、そうすることで初めて子ども本人が、私という本当の特別(私らしさ)を見つけることができるのでしょう。誰かと競うものではなく誰かと同じものでもない、私らしさという、自分が見つけ出す自分の本性。
 そういう意味での教育論は、理想主義に偏りすぎではありますけれど、理想のない教育はそもそも教育とは呼べないものでありますれば、それは十分許容範囲内なのでしょうね。

 「はい、対象者のあなた以外には、わたしの存在は認識できない筈です」
 「認識できないって…なんか透明で見えないみたいの?」
 「うーん、そういう訳ではないんですけど、誰にも気にならない存在というか…。ものすごーく、影が薄いような感じなんです」

サナララ」の冒頭より。セーブデータをダウンロードしてプレイしようと試みた(けど挫折した)その残照です。
他者と関り合いになることをできるだけ避け、互いに手を伸ばしても届かない程度の距離を取り合りつつ、無関心と書かれたプラカードを顔面に掲げ合うことがマナーとなっている今日私たちの社会において、椎名希未のこの"性質"は言い得て妙だなと思ったのでした。
町で通り過ぎる人、近所に住む人、同じ教室にいる人、自分にとって物理的に近くに存在している全ての人を「普通の人」と認識することの根底には、その存在を意識的に認識しないという心理があり、それが私たち社会の基本的なマナーとしてごく標準的に備わっている、いわば暗黙の準則なのです。
けれども、ギャルゲーの主人公は、先天的に「特別な子」として存在しています。プレイヤーにとって(視点となるという意味で)特別な子としてゲームシステム自体がそれを確定します。そのシステムに則ったプレイヤーは、彼のキャラクター(私らしさ)を見出し、それを無条件で肯定し、それに添った形で選択肢等のゲームデバイスを情緒的に、ときには情熱的に操作していく(関わりあう)。
実は、主人公の殻を破ったのは、制作者でもゲームシステムでも誰でもない、プレイヤー自身だったという、ある意味当然すぎるそのことが浮かび上がってきます。
ゲームパッケージを破り、中に入っているソフトを見つけ出すのは、誰でもないプレイヤー自身なのですからね。
ゲームとプレイヤーによって運命的に特別付けられた主人公にとって、しかしながら出会うヒロインたちは、とても普通とはいえないような(というより異常だと断言してもいいくらいの)女の子ばかりであって、そんな彼女たちがごく自然に暮らしている"その世界"に主人公が降り立った瞬間、何かが反転します。普通じゃないヒロインたちが普通となり、特別であったはずの主人公が普通となってしまう。ギャルゲーというヒネクレが腕づくでひっくり返してしまうのです。
本質的な特別さを秘めた"どこにでもいる"普通の主人公が、本質的に魅力的である"影が薄くて目立たない"普通のヒロインたちと、出会い重ねて恋をして。主人公の本性、プレイヤーがゲームシステム的に殻を破り、見出されたそれが、今度はヒロインの普通という殻を丁寧に剥ぎ取り、彼女の本性をやさしく見出していくということ。ゲームデバイスを介したプレイヤーの「特別なかかわり」と、恋愛を通して変化していく彼と彼女への「特別なまなざし」が、ギャルゲーというヒネクレを解きほぐし、普通という錯誤を取り払っていくのです、ある種のカタルシスを伴って。
そもそもギャルゲーのヒネクレとは、徹底的なリアリティのなさを逆手に取った"はねっかえり"で、ほどかれるその網目の隙間に一瞬うっすらと現実感を見せるためのもの。取り払われるべき普通とは、反則的に取ってつけられた露骨な錯誤(主人公もヒロインも普通のわけがないじゃない!)なんだけれども、そこには、大切な人によって自分を「普通の子」から「特別な子」へと変えていって欲しいと願望している、僕らの変わらぬ少年時代という象徴でもあります。ノスタルジックな錯誤は、僕らが共感するための大切なまやかし。

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そのえげつないカタルシスを、少女マンガのそれや、理想的な教育のそれと結びつけて称揚したいとは思わないけれど。

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行き着くところ。あらゆるオタクの恋する気持ちを、あまたのヒロインあまたの恋物語が満遍なく掬いとり、本来断絶しているオタクたちの意識を恋という同質の感情で結びつけ、制服とかスク水とか黒ストとかいった現つ世のちっちゃな女の子にまつわるならわしを根掘り葉掘り貪欲に取り込んでいくことで、あまねく一体性を帯びたオタク・ナショナリズムとでも呼べるカタルシス的なうねりが、僕と僕らの時代を突き動かしていくのかもしれませんね。