デジタルタイマーに思う生(せい)のこと

先日の日記http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20050728/p1に書いたとおり、電動式歩行器を買って、タバコの臭いの染み付いた妹の部屋で、タバコの臭いがほのかに混じった空気を吸いながら、1日30分エクセサイズをしているのですが。そのタイマーのデジタル表示を見ていて、ふと思ったことです。
この電動歩行器は、時間単位と、距離単位のタイマーが2つ設置されていて、それぞれ10分/20分/30分、1k/2k/3k単位で設定できます。始動させると、それぞれ残り時間・距離が減っていき、規定時間・距離になると歩行がストップする仕組みですね。僕は1日30分間運動すると決めているので、時間のほうのタイマーを30分に設定して、そのデジタル時間を減らしながら、こうして歩いているのです。
そのタイマーのデジタル表示を見ていて、ふと思ったのは。残り30分〜15分までは、デジタル表示を見ていると気が重くなってしまって、表示から目を逸らせ、宙空を見つめながらぼんやりとここに書くようなくだらないことを考えたりして、少したった後に気になってタイマー表示に目を戻すと、時間が一気に減っています。
残り15分を過ぎてしまうと、急にデジタル表示の進捗が頼もしく感じられ、デジタル表示が1秒ずつ減っていく、繰り上がって10の位が減っていく、そういうデジタルから目が離せなくなってしまうのです。

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心をからっぽにするために、走る。心をみたすために、歩く。


読売新聞の「こどもの詩」で長田弘さんがこう書かれていたけれど、実際的にも言い得て妙だなと思ったものです。時速4kというのは、歩くというのには早すぎて、走るというのには遅すぎる、なんとも中途半端な速度でして。何か考えようとしていても、理路よくまとめようとした次の瞬間にそれは霧散していて、何も考えないようにしていても、ふと、実にいい加減で実に美味しそうなひらめきが思い浮かんできたりするから、本当困りものです。
僕が僕の運動で設定した、30分というのは、つまり目標です。30分間休むことなく歩き続けるという、目指す標。それと同時に、30分というのは、時間でもあります。1秒1分と刻まれていく、0分から30分までの時の間。
目標と、時間は、まったく違う概念であると同時に、深く結びついた概念であるともいえます。目標というものは、きちんとした刻限を定めて取り掛からなければあまり意味がありません。(誰に因るでなく勝手に動き出した)時というものを間切るためには、誰でもない自分がその意思でそれを為すしかなく、したがって時間というものは極めて私的な概念であって、それは目標というものと通じているような気がします。
人は、仕事に、趣味に、人生そのものに目標を立ててこそ積極的に生きていける性質があるとしたとき、むしろ、目標を立てなければ有意義に満足して生きていけやしないのに、時間を作るということ、自分のために時を区切るのになんらかの"もっともらしい"理由(きっかけ)が必要になる、やっかいな存在なのではないかと思ってしまうのです。
僕ら人間には、寿命という根源的な時間(区切られた時)があります。それは人生80年といわれたりして、平均寿命あるいは平均余命といった統計データによって算出されています。けれどもその数値は自分の時間とはいえなくて、あくまで自分(と同年代)一般の平均。平均化された事実は限りなく事実から遠ざかり、一般化された自分は自分そのものではなくなる、自分の時間はそこからは求められません。
いつか訪れる死というもの。死は自分にも必ず訪れることであるという事実ですら、誰もが一般的にしかわかっていないとするとき、自分の死は結局、自分のものではありません。そもそも、実際に自分が死んでみたときしか、死は、自分のものにはならないものなのですから。
生を得た時刻は正確に記録されているのに、死を得る時刻はまったくの未定。始まりは、記憶にはないけれども確かにあって、終わりも一般的にいえば絶対あるはずなのに、なぜかあやふやなままである現在の自分の人生というもの、それは因果として、時間という概念の根本的な喪失に繋がっていきます。最期のよすがとなるべき間切り(=死)の認識が薄弱であるために、時がとめどなく垂れ流されているのです。
時(宇宙)はあっても、時間(大地)がないのです。
だから僕らはやたら目標を立てたがるのではないでしょうか。小学校入学から大学卒業まで、三十路、四十路を経て還暦、定年といった形式的なものも含めた、どのようなものであれ目標が、付随的に、無くした僕らの時間をかりそめにも取り戻させてくれるからです。朝が来て夜が過ぎて1日が終わって新しい1日が始まる、というようにはいかない僕らの時を、垂れ流されていく時を自動的に強制的に区切り、ある程度せき止めてくれもする、そんな優れてやさしい機能を備えているのです。
時を区切るという概念。自分がいつ死ぬかわからないということを、「とりあえずその"いつか"は今ではない」と楽観的に捉えることにある程度の自信がもてる世代、人生とかいう概念の大仰さにうんざりしてしまうデジタルタイマー残り30分〜15分までは、時間のことなんて顧みず、宙空を夢中で見つめながら、人生の外縁をがむしゃらに駆けずり際限なく拡大させていくのでしょう。
自分がいつ死ぬかわからないということを、「そろそろその"いつか"が着てもいい頃合だ」と悲観的に捉えることにある程度の確信をもたざるを得ない世代、人生という概念の信実さにはっとさせられるデジタルタイマーが残り15分を過ぎてしまうと、時間のことから目が離せず、自らの存在を必死に見つめながら、人生の中心を慎重にほどき密集しつつ収縮していくのでしょう。

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心をからっぽにするために、走る。心をみたすために、歩く。


自分の外側(現実)を突き崩さんがと走る人、自分の内側(精神)を解き明さんがと歩く人。そして、時速4kくらいの、僕。
正確に減っていくデジタルタイマーを、見なかったり見たりしつつ、何か考えたり考えなかったりしつつ、走っているのか歩いてるのか、よくわからない、中途半端がほんとう僕。自身。もーよくわかんないやw