核兵器廃絶という思潮 日本人としてのありよう

広島、60回目の鎮魂の祈り
  http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050806it02.htm
戦後60年 記憶をつなぐ
  http://osaka.yomiuri.co.jp/sengo60/index.htm
全世界の核兵器の廃絶を目指すという思想は、広島で60回目の原爆忌を迎えた今日のちょうどさっきテレビで流れていた、ヤンキース松井秀喜選手が身体障害者の少年を球場に招待して、ファインプレーを見せることと似ているなあと、なんとなく思いました。
松井本人に会ったこともなければ、話したこともない、テレビ画面以外の生の彼を知らない僕は、そういった麗しいふれあいを映像として見ていると、どうしてもある種の"やらせ"的なもの、しいて言えば松井秀喜というキャラクターのイメージアップ戦略の一環として、間接的にCMの契約金を釣り上げるためにやっているんじゃないのか、などと穿って見てしまいます。映像から伝わってくるほど世の中キレイゴトばかりじゃないと。結局それは利己的な行為であって、偽善なんじゃないのかと。
けれども、少なくとも、わざわざアメリカの球場に赴いて憧れの松井秀喜の見事なプレイーを生で観戦して、しかも松井選手とじかに話すことができた感動は、その少年にとって素晴らしい真実であることに変わりはないし。松井選手にしてみたところで、そういった利己的な部分があるなしとは別に、障害を負った少年と触れ合うことで何かしら深く感じる部分があるのも、真実であると、信じられるような気もします。
目指すべきものがあって、そして、得られるものがあるのだと、僕は思うのです。目指すべきものと得られるものが必ずしも同じではなくても、得られるものは尊く、美しい。それが目指すべきものではなくても、その価値は決して損なわれることはないのです。
全世界の核兵器を廃絶しようというのは、ぶっちゃけ非現実的な話、空想もいいところです。今真剣に話し合われなければならないのは、現状拡散してしまった核兵器を認め、その上で世界秩序を維持していくために核兵器のパワーバランスをどうやってとっていくかということ。唯一の超大国となったアメリカが、力による正義によって、核による新秩序構築を模索しているところであって、そういう文脈に沿って現在、6カ国協議があって、イランと西欧が交渉を重ねているわけです。
気がついたらインドとパキスタンが核保有国であることが既成事実になってしまった、けしからん、と言っているときではないんです。
核による抑止力。容易に相手国の都市を根こそぎ絶滅させることができる核兵器というものを互いが持つことで、互いの核兵器を実質的に無力化することができる。この思想によって全世界の核兵器は実質的に無力化されていくけれども、他方それは、全世界に核兵器を拡散させる現実的な原動力にもなってしまっています。
米国の正義によって核世界の最善たる新秩序が構成されて、実際的な核兵器がなくなることが叶ったとしても、多くの国が核兵器保有している現実において、その現実とはつまり僕たちが生きている現実そのもの。容赦のない現実が僕たちに牙を向けるのに、その実際はあまりに無力です。
ありとあらゆることが打算的で、利己的で、キレイゴトではまったく済まされない現実。もはやたった自分の国を防衛するためにだって核兵器保有しなければならない、なんともひどい時代です。核兵器が世界を動かしているこの21世紀に、全世界の核兵器の廃絶を目指すという思潮を人々が担い続けることで、もし、得られるものがあるとしたらば。
それは、核兵器というものが、そもそも兵器と呼ぶに値しない非人道そのものであり、ヒトという種にとって極めて危険な核思想によって秩序付けられた、現代といういまを、僕らはこうして生かされているんだという、矛盾に満ちた"ふてぶてしい"現実を、同時代人全てに忘れないでいてもらうということではないでしょうか。
たとえば、全世界の国々が核兵器保有しているのが当たり前になった時代に、新しく生まれてきた子どもたち、核兵器が人々にもたらすおぞましい惨禍を知りもしない、聞いたこともないような世代が時代の潮流を担う未来に、人類の希望があるとはとてもじゃないけど思えない。だからこそ、僕ら日本人は被爆国民として核廃絶を目指さなければならず、未来のために、過去において蒙った核兵器によるおぞましい惨禍を語り継いでいかなければならず、核廃絶への道筋を自ら全世界に示していかなければなりません。
それは決して、かつて広島市長が語ったような、国連に核兵器廃絶に向けた具体的行動を強制するというようなことではありません。あの少年は、松井秀喜が野球選手を辞めて、自分のようなハンディを負った少年をひとりでも多く救う障害者支援運動に身を投じて欲しいと願っているわけではないのです。
松井秀喜(にきび)がにきび(松井秀喜)らしくあるということ。被爆国である日本に生まれ育った僕らが、日本人らしくあるということ。それそのものにまい進することが、大人を含めた多くの少年少女に夢と希望を与えているように、世界に向けてごく当たり前で、ごく大切なメッセージを常に与え続けていくことになるような、日本人としての本来のありようを、僕らはもっと真剣に見つめ、考えていかなければならないのだと思います。
僕はほんとう思うのです。目指すべきものがあって、そして、得られるものがあるのだと。目指すべきものと得られるものが必ずしも同じではなくても、得られるものは尊く、美しい。それが目指すべきものではないということが、それ本来の価値を損ねるようなことは決してないのです。
悪意の存在を無条件で肯う前に、祈り願うことで繋がりあう善意の存在を、もっと信じてもいいのでは。共有され結びついた人々の善意が、点から線、面から空間全体へと伝わり、国を超え世界を広がっていく。そういう過程自体が、目指すことで得られるものこそが、平和というものなのではないでしょうかね。
平和を目指して、平和は得られるのではなくて、たとえばとなりの貴方に優しくあろうと多くの人が望むことで、どさくさ的に平和は成し遂げられていくんじゃないかなあと、なんとなく思うわけです。