独我論の檻 嘲笑される自分語り

絵を描く人がいます。音楽を作る人がいます。文章を書く人がいます。
自分が楽しい絵を描くのでしょう。自分が楽しい音楽を作るのでしょう。
けれども、自分が楽しい文章を書くというのは、どこか違うような気がしてしまうのは、なぜなんだろう。
僕はコチラのwebで、自分が楽しい、自分が気持ちいい文章を飽きもせず書き連ねています。好きだから書いているのに、でもいつも心のどこかで罪悪感を感じているのは、なぜなんだろう。
文章という世界には、ごく一部の書き手しか立ち入ることのできない、絶対無二の真理の論理というものが存在していて、それに触れることが許された者のみ、文章にまつわる快楽に浴することができるのです。それ以外の僕のような無知蒙昧は、どれだけ足掻こうと独我論の檻から逃れることはできず、この偽りの気持ちよさは、読者を欺いているという意識からくる罪悪感か、あるいは浅はかな"はかりごと"として逆に読者に嘲笑されているかもしれないという恐怖に、じりじりと蝕まれていく。
もっと本を読まなきゃ、死に物狂いで本を読まなきゃ。僕はそうして今日も、まるで呪詛文句のように繰り返し、繰り返しこう唱えているのです。それはまるで、「プレイしなきゃ」と思えば思うほど遠のいていってしまうエロゲーのように、腐れ縁の義務感は読書から僕をますます遠ざけていって。唱えるだけで救われる安っぽい新興宗教然としていて。昼間は、本という神と、読書という司祭にひれ伏しながら、夜になると僕は、こうして偽りの背徳的快楽に耽っているのです。ろくでなしなのです。
それにしても。"プレイしなきゃならない"と自分が決めなければその関係を維持できないような、"むつかしい"ギャルゲーを抱えてしまうと、どうしてこう不毛なコトばかり書いてしまうのだろう。それはまるで定期テスト前夜に読む小学校の卒業アルバムのように、恍惚的な逃避として。いっそ逃避しきった僕は、未コンプのままそのギャルゲーを中古屋に売却に走ってしまいたい衝動に駆られるのです。
ああ。僕は何もかもから逃げてばっかりだ。好きだったはずのものからさえも逃げだしてしまったら、僕にはいったい、何が残るというのだろう。
とまあ、極めて僕個人に関する埒もない話でした。面白いハズの「ゆのはな」なのに主人公がどうしても馴染めなくてプレイを続けることができないというジレンマの、話。
ギャルゲーに逃避するのではなく、ギャルゲーから逃避した僕の目の前に、森の十字路伝説はあるわけです。僕が今テキストを書くことで感じている罪悪感・焦燥感は、そこらへんの成分も多少含まれているのかもしれませんね。
とまあ、こういうのを自分語りというのでしょうか。というか、こういうのしか僕はここで書いてませんけどね。
あはは……?