手元が狂って「めぐり愛して」に転生させられる

手元供養、故人とのコミュニケーション
  http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/topic/kt50720a.htm
手元供養というのは、故人の遺骨を納めた小さな墓石やオブジェ、遺骨を粉末にして混ぜたアクセサリーとして遺族が手元に置いて供養する、新しいスタイルの"お墓"商品として提案されているものです。経済的な理由や、「お墓参りに行く時間がない」といった都合もあって、今後需要が伸びてくるのではないかと記事には書いてありますが。僕は、果たしてそう単純なものかなぁと感じつつ、いろいろ考えてしまいました。
墓地って、離れているべきだと思うんですよ、残された者にとって。
家族というのは、常に一緒にいなければならない関係じゃないですか。独立前なら物理的にも、独立しようがあるいは勘当されようが心理的に、つかず離れず根っこのところで繋がっている関係(それはある意味幸せな認識だとは思いますけど)。良い意味でも悪い意味でも密接にならざるを得ない関係であればこそ、相手の嫌な部分、醜い部分がどうしても見えてきてしまいます。
死にまつわる数々の儀式(お葬式とか)は、逝く人にとって生前の嫌な部分、醜い部分、残された者たちの心の中にわだかまる"汚れ"を浄化して、それは遺体を湯かん・清拭し死化粧を施すのと同じように、誰もを身も心も美しい状態にして、清々しく送り出すためのものだと思うんです。葬儀屋さんに仕切ってもらうと、近親者がどことなくお客様風気分になってしまって、そうして遠地に埋葬され、古式に則った厳かで意味の分からない法要を重ねることで、近ければ遠く、遠ければ近く、故人との美しい距離感が確立されていくんだと思うんです。
だから、お墓は遠くにあるべきです。遠いからこそ、わざわざお墓参りグッズを携えて遺族は赴かなければならない。「あらあら、遠いところまでご苦労さんだね」「いえいえ、大切な貴方のことですから」。そういうやりとりに滲み出るやさしい形式主義に、遺族と故人の心の関係は永続的に浄められていく。死というものが、生きている者にとって実質的な意味を持ち得ない以上、それは形式でしか捉えようがなくて、だから死にまつわる形式に拘ることは、すごく重要なことだとわかるわけです。
たとえば、恋人を亡くした場合、親が子を亡くした場合などの、儀式や形式によらず自力本願的に死者を美化できるほどの、ゆるぎない信頼関係、あるいは絶対的な所属関係にあった場合は、手元供養というのは案外しっくりくるスタイルなのではないかとは思います。自分の一部を失ったというのに、その(かつての)一部であったものを遠く離れた墓地に追いやってしまうというのは、考えてみれば不自然です。遺された人は、自分の一部を空しくさせたまま生きていくことになるわけですから。
もちろん、家に仏壇をもうけ、位牌に手を合わせることで身近に感じていられるでしょうけど。
欠けた部分を埋めるために生きていく、というよりも、失った部分を含めたひとりの存在として、新しい幸せを求めていくというほうが、なんだか素敵に感じられるし、そういう気持ちの良い前向きさにとって、手元供養という"弔事革命"は、仏壇の位牌よりかは強く濃く実際的に"支持"してくれるんじゃないかなぁと、思うのです。
ただ、例えば宗教団体の教祖や、アーティスト、アイドルが死んだ場合、粉末状にした遺骨をごくごく微量ずつ混ぜたアクセサリーを、信徒やファンに販売したら、たとえどんなに高額でも絶対売れるだろうなぁなどと想像すると、そういう商売を成り立たせる手元供養という提案はどうなのよ、と思うところもあるし。(実は遺骨が入ってなかったという疑惑が発覚して泥沼訴訟)
なにより、ぶっちゃけ僕は、死んだ親の遺骨を加工して部屋のオブジェや装飾品にして肌身離さず……という思想自体想像絶するにもほどがあります。だいいち気色悪いし、死んだ後まで親に縛られているようで窮屈そうだし、ともかく今はまったく考えられない供養方法ですよ。
でもそれは、まだ僕がガキだからなのかもしれません。僕自身が老いて、親の気持ちが分かるようになったとき、もしかしたら手元供養のような、物理的に肌身離さない供養スタイルを望むようになるのかもしれません。案外そうなるような気もしますね。だとしたら、一度普通に墓地に埋葬しても、墓から戻せて加工できるようにして欲しいかも。
または、そのときどきの心境によって、位牌にもアクセサリーにも何度も加工できるような素材として、利用できたらいいなぁと考えるのは、さすがに遺骨の本質を軽々に扱いすぎですね。
もちろん、何よりも先ず故人の意思を尊重しなければなりません。でも、遺骨の埋葬方法にまで故人が口を出すなという気もするんですよね。そりゃ、経済的に負担をかけるのが申し訳ないからなるべく安い方法にしてよ、という"口出し"なら涙が出ますが。
故人(彼の死後)との付き合い方(供養方法)は、根本的に遺族が選択すべきことだと思っています。だって、供養するのは遺族なのですから。そこを妥協して、故人の意思を汲んだ遺族が自由に選択すべき事柄だということであれば、遺骨の9割分は故人の望んだとおりにしてあげて、1割分は手元供養という形で残し、遺族本人の趣味とセンスと思想をもって、現世の形あるモノに故人の魂の残り香を宿すという、分骨(?)を前提にした折衷案も、出てきますよね。手元供養の場合、あまり遺骨の"分量"は関係なさそうですからね。
伝統的な日本文化に深く根付いた死という形式が、情緒的なやさしさを守られながらその時代の文化的発想によって、その"包み手"をたおやかに変化させていく。まぁ、あれだ、周辺住民にとってはごみ焼却施設における迷惑さ並みに絶対純度の気味悪さを誇る自然散骨よりは、気が利いてていいじゃない手元供養、という話でした。
ちなみに僕が死んだら、ぜひ、粉末にした遺骨をギャルゲーソフトに加工してもらって、そのまま中古市場に流して欲しいです。できれば「ONE〜輝く季節へ〜」(欲を言えば初回版)として僕の体を"転生"させてくれたらば、今生で望みうるこれ以上の幸せはございません。
うわ。想像するだけで今から楽しみになってきましたよ。