中日(なかび)補正

http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20050811/p2
メディアリテラシーというと、なんとなく、有害な情報を自らシャットダウンできる自制心のように捉えがちですが、僕はむしろ、有益であり尊く美しくもある言葉・表現を"気に留められる"能力のことをいうんじゃないかと思ったりします。
自分にとって感銘を受ける"文学"というものを心得ていればこそ、それを損なう情報を積極的に排斥することができる、つまり自分の価値観と感性に全幅の信頼を寄せ、ゆるぎなく、しかうして自らを尊重する姿勢の矢先に、どうしようもなくそこに自らの文学が言葉として表れてくる、その採取場こそがメディアであり、リテラシーという選り分けるチカラなんじゃないかと、考えてしまうのです。
まず得るべきもの(精神)を個々人が見据えてこそ、そのチカラは実効力をもつんだと思うんですよね。

ゲーテは「美しい」と言う事は「気に入っている」でしかないと言っています。
気に入るか気に食わないかだけの話、芸術は「こうでなければならない」と言うことはないと私は思っています。

こんなフジ子・ヘミングの言葉をたまたま見つけました。
異性を気に入る(好きになる)ということは、異性を美しく感じるいわゆる審美眼のなせる業であって、実は、そうやって個々人の異性について個々人が美しいと感じてしまうその部分こそが、ただの解釈論において、男らしさ・女らしさになっていくのではないでしょうか。
男らしいから好きだとか、女らしいから好きだというのではなくて、自分の価値観や感性に照らして"美しい"と感じられる、それその部分こそが男らしさ・女らしさの本質であって、その本来個別的であるべき価値観・感性が、今日的個人主義の不安定さにつけ込む形で大きな潮流として蔓延してしまった結果、「こうでなければならない」というフォーマットとしての男らしさ・女らしさが確立してしまったように思われます。
立ちションベンできてパンツ一丁で過ごせてあぐらをかけることが男らしさのはずはないわけで、それができないことをもって女らしいとするのもおかしいわけで、僕らはその「〜らしい」という文法の真実の用例を本当は知っているのです。それが、森英恵さんの仰っていた「個性」ということ。
異性であれ同性であれその個性を気に入っているということ、好きだということ、その説明不可・不要の感情の根拠が、(本人)らしさの下位概念に過ぎない男らしさ・女らしさとして公的に識別されるに過ぎないのです。気に入るか気に食わないかというメインカルチャーと、男らしさ・女らしさを基礎に内気だのツンデレだのお嬢様天然無口元気系等等の特異派生を包含したサブカルチャー
まぁ、その男らしさ・女らしさという公的識別子が思わぬ曲者で、個性の上位概念と錯覚してしまうほどの勢いになってしまっているから、派生も入り混じってリアル巷の恋愛各所で不都合が生じているわけなのでしょうけど。
というか、女の子の立ちションベンは物理的に不可能っしょ。せめて…座ってくれないと…。