列に並んで1歩30cmのアスファルト

それにしても、コミケで同人誌をちゃんと選んで買おうとすると、必然のように18禁本が減っていくのは、我ながらちょっと可笑しい。
なんでだろうと考えてみると、18禁本の濡れ場というもの、性行為の手順を、僕はどうしても既定のルーチンワークとして捉えずにはいられなくて、それを描くことで(作者にとっては)ページ数が容易に稼げて、しかも極めて排他的な空間だから背景を描く必要もなくて楽、そのうえたくさんの(男性)客に買ってもらえちゃう最強食材のようで、そういう作者側のご都合主義に踊らされているような気がするのが、癪に触るからなのかもしれません。
(性的に)気持ちよいことがあって、(性的に)気持ちよくする/なる方法がある程度厳密に、割と普遍的に確立している濡れ場というものと違い、あるいは比較的、物語というものは基本的に気持ちよいことだけを求めているわけじゃなく、しかも気持ちよくする/なる方法について厳密なルール(公式)が存在しない世界だと思うのです。濡れ場にとっては気持ちよいことが絶対正義であるけれども、物語にとっては気持ちよいことが時に悪であり、達しきれないことが時に正義になったりする、善悪の判断基準ですら一から創造していかなければならない領域が、物語の物語たるゆえんです。
さらにいえば、マテリアルとしての性的快楽とそれを求める人の欲求をいったん徹底的に排斥したあと、それを遠くから間接的に憧れる《塞がれた性的動機》を駆動力に、あるいは導引力として、物語というものは作者によって自由自在に創造され、精神地平を媒介して読者自ら引き込んでいくものなのだと思うのです。
「あの子を抱きたい、そのためにはどうしたらいいか?」
あられもなく本能的な目的-方法の狭間に、文化が生まれ、物語が編まれる。そして、その目的-方法に狭間があるからこそ、人間は人間でいられるのであって、その狭間に埋め尽くされた文化と、物語を両親にして、個性は産み落とされていくように空想しています。
翻って、あらゆる数多の個性を帯びた2次元美少女ヒロインたちが、ベッド上では同じような反応しか見せないのは、(読者の)本能的な目的-方法の間に狭間がないから、だからそこに個性が必要ないから。それとも、(本当は存在する)濡れ場の物語性や、俎板上のヒロインの個性に僕が気づけない、僕の読解力のなさが原因なのでしょうかね。
ご褒美としての見目麗しい2次元美少女との濡れ場シーンという位置づけが、美少女ゲームのゲーム性にとって割とかけがえのない装置であるのと同じように、人気があり価値のある18禁同人誌をゲットするために長蛇の列に並ぶという行為もまた、その装置の一部として位置づけることができるものなのでしょうか。
強いて言うなら、コミックマーケットというゲーム性。そこに致命的な違いがあるとするならば、美少女ゲームの1クリックごとに物語が潜んでいるのに対し、大手サークルの列の1歩ごとに30cm程度の現実が露出しているということです。
18禁同人誌の提供する濡れ場という非物語を求めて、物語を捨てていく長蛇の列と(コミックマーケットという物語とは本来、サークルメンバーと一般参加者、サークル同士、一般参加者同士の出会いと交流を通し生で描かれていくもの。列に並ぶという行為はコミケの物語性を破棄します)、18禁美少女ゲームの提供する濡れ場という非物語を求めて、物語に嵌まり込んでいくプレイヤー。
18禁美少女ゲームというもののゲーム性の本質とは、プレイヤーをその"主目的"(エロ)に訴えて巧みにおびき寄せ、自然かつ無理やりに物語という陥穽に落とし込む欺瞞のことであるとしたとき、結局、僕らが大手サークルに列作って並ぶことも、ギャルゲーを起動してクリックすることも、目的-方法という面ではまったく代わり映えしなくて。
その狭間に、(例えば恋愛や学校というような)文化があるか、物語があるか、はたまたアスファルトがあるかという違いだけ。そのアスファルトを"読んでやる!"というメルヘンがもしかしたら成立するのかもしれないけれど。ちなみに騙すかどうかでいえば、たまにコミケの列でも騙されることがありますけどね(あともう少しで買えるって段階で完売したりとか)。
物語を諦めた18禁同人誌と、物語を捨てた長蛇の列。いや、だからどうしたって話なんですけどね。