晩夏のためいき

夏も盆(夏コミ)を過ぎ、日中の暑さは依然容赦ないけれど、夕方に近所の自然公園を通りかかるとひぐらしの鳴き声が深々とこだまするようになると、僕は、「痕−きずあと−」というギャルゲーの劇中音楽「ためいき」という曲を妙に聴きたくなります。
この作品、でも実は全然思い入れなくて、リニューアル版を買ってプレイしたことがあるものの、そのときはあまり気に入らずすぐ売り払っちゃったくらい。ただ、この作品の主人公である男子学生が、田舎に帰省して、夏の夕暮れ時、実家の畳敷きの部屋に寝転がって、何をするでもなくぼーっと物思いに耽っている(そういうシーンがあった、というよりはそういうイメージを抱いた)、そんな風情で流れている「ためいき」が、妙に強く印象に残ってしまって。
いや、本当のこと言うとですね。僕が「痕−きずあと−」を買ってプレイしたのは、「ためいき」が劇中でどんなシーンで使われているのか、どんな情緒を伴って挿入されているのかが知りたいがため、それだけだったのですよ。かつてよくお世話になっていたwebのBGMでこの「ためいき」が使用されていて、けれど僕はその当時18禁PCギャルゲーというものをプレイしたことがなく、だからただ純粋に、この曲の醸しだしている、憂鬱を持て余しているような、とりとめのない倦怠感をありのまま聞き入っていたのです。
そして、そんな僕の「ためいき」にまつわる感情の"裏付け"が、あるときなんとなく欲しくなって、ゲームをプレイしたんです。
ゲーム音楽っていうのもつくづく不思議ですよね。ゲームを知っている人にとっては、その音楽はゲーム音楽であって、ゲーム音楽以外の何者でもないけれど、ゲームを知らない人にとっては、それが正真正銘のゲーム音楽であったとしても、ただの(無属性という意味での)音楽に過ぎなくて。
ゲーム内容(テーマ)にインスパイヤされて、あるいはただのビジネスとして作曲家が創出したゲーム音楽は、ゲームをプレイすることで上程される純正イメージとして、聴き手に取り込まれていくけれど。ゲームをプレイせず、あるいはゲーム音楽であることすら知らずにその音楽を聴くことで、自分勝手に上程される規格外イメージ、後になってゲームをプレイして知ることになる純正イメージとの違いを目の当たりにする偶然に、恵まれたとき。
知るということは、あるいはどうしようもなく束縛してしまうことなのだということを教えてくれます。それは例えば、生まれてこの方、誰もいっさい僕のことを人間だと教えてくれていなかったら、僕は自身のことをいったいなんだと思っていたのだろう?というようなレトリックみたいで。
子どもの頃に聴いた音楽や、嗅いだ匂いが、さまざまでごく個人的な思い出と分かちがたく結びついてしまっているのは、きっとその音楽や匂いと出会ったとき、その正体を知りようがなかったから。親にたくさん買ってもらった、どれも同じようなミニカーなのに自分の中できっちりと序列化して、お外に持ち出し可能か禁止かといったように、扱い方を厳格に分ける価値基準の拠りどころとなっている、知識に束縛されない幼い僕の感性みたいなもの。
それが、あるとき音楽や匂いというものを、わからないことをいいことに、そのとき自分の中に湧き上がっていた"とらえどころのない"感情と、「ちょうどいいや」とばかり適当に関連づけ、"意味"みたいなものを与えてくれちゃっていたのでしょうね。
本当、笑っちゃうくらいの適当な意味です。例えばトイレのとある芳香剤の匂いを嗅ぐと「あ、これは福島君ちの匂いだ」、醤油を焦がしたような香ばしい匂いを嗅ぐと「あ、これは岩崎君ちの家だ」とか。福島君も岩崎君も下手するともう20年は会ってない、生きているかさえ知りようがないほどの間柄だというのに、ある特定の匂いの意味にとっては、とても長い間かけがえのない固有名詞となっています。
そういった、言葉だけでなく、記憶だけでなく、そのときのいまを五感的に記銘しようとする幼き僕のあどけないならわしは、忘れっぽい僕の思い出保存の役には立っているようです。まぁ、「ためいき」がどうとか、トイレの芳香剤がなにとか、覚えていてもしょうがないものばかりですが…。
僕という存在は、誰かしら何かしらによって、物覚えついたときに人間として関連づけられ、知る意味というものを与えられたから、人間でいられるのであって。もし、意地の悪い何者かが、僕を「ためいき」とかトイレの芳香剤とか焦がした醤油と関連づけて、音楽や匂いという意味を与えられでもしたら、僕はいったいどうなっていたことだろう。
…あほらし。