猫の恩返し、の感想ではありません

金曜ロードショーの「猫の恩返し」を観るはずが、もちろん「猫の恩返し」も観たけれど(面白かった!映画館で観ておけばよかったと悔やむ!)、今僕が見ているのは「ふとふり返ると 近藤喜文画文集」だったりします。だって、いきなり冒頭で「そらいろのたね」を流すのは反則だよなあ。
野見祐二さんの音楽に乗って「猫の恩返し」を観ていると、「近藤監督だったらどうしただろう」「近藤監督だったらああはしないよね」と思わずにいられなくなってしまいました。本名陽子ちゃんも出ていたし、ハルとバロンが空を飛ぶシーンには「耳をすませば」のメインテーマがそよいできて、なんかもう、泣けてきました。もうめちゃくちゃ「耳をすませば」の続編じゃないですか。どうして近藤喜文監督のクレジットが出てこないのさ。
「ふとふり返ると 近藤喜文画文集」は、僕のとても好きな画集です。埃かぶってたけど…。
アニメーションというと僕は、どうしても近未来のロボット戦争とか、ヒーローの冒険活劇やヒロインの恋愛など、叶わないもの、得られないもの、失われたもの、非日常的な世界と願望成就の物語を描く"かしこまった"場所なのだという思い込みから脱することができなくて。そういう(高い)地平から、たまに日常描写の如実なシーンが出てくると「ああ、これはなんてリアルな日常だろうね」という風に、わざわざ"見下ろして"捉えています。
でも、この画文集の描いている日常は、まさに"そのまんまの地平"なんですよね。等身大どころか、きょろきょろよそ見したりしゃがんで地べたすれすれから覗いてみたりする、つぶらな好奇心に満ちた目線から描かれるどこにでもあるようななんでもないような日常が、僕はとてもわくわくしてしまう。でも、どこにでもあるようななんでもないような日常、僕がそう思っているのは実はただの思い込みで、そういう風景はもはや日本中どこを探してももうないのかもしれない。
いや、それが実在しているか絶滅しているかという話ではなくて、そんな風景を見つけ、見つめることのできる、いわば日常というものそれ自体に新鮮な関心を抱くことのできる僕の感性が既に失われているということを、僕は知っているんです。かつてもっていた(かもしれない)、けれどもう失ってしまっていると思っていた僕の感性が、この画文集を読むとなぜかわくわくする、本来ならくだらないと吐き捨ててしまうのが筋だろうに。「ああそうか、まだ底の方にこびりついてやがるんだな」と、そのことに気づいてすごくほっとするんですね。
アニメーションというものを僕の日常の目線に"取り戻させてくれた"、そして身近な日常というものを見つめる僕の感性に新鮮な息吹を注ぎ込んで、本当に「ふと振り返ると」、そこには近未来のロボット戦争もヒーローの冒険活劇もヒロインの恋愛も敵わない素敵な世界と物語が充満しているんだよと、僕に教えてくれているような気がするんです。
そういう意味で、「耳をすませば」には本当に驚かされるんです。作品自体というよりも、そのファン層の裾野の広がりというんでしょうか。内容的には正直こっ恥ずかしさ120%なお話です。それなのに、そもそもアニメなんて見そうもないような、そういう話を一切したこともなかったような堅物が、ふとしたきっかけで、「『耳をすませば』って、いいよな」という話になったが最後、深夜に車内で耳すまについて熱く語り合いながら聖地巡礼まがいのことをしたのも1回や2回、いや1人や2人どころじゃ済まないというんですから。
「なんでお前そんなに『耳すま』好きかなー」「お前に言われたくないやい」
耳をすませば」という作品が好きだといえる人は、日常のなかの物語の存在というものを"ずっと信じたがっていた人たち"なのかもしれません。
僕たちは作品の空気として、井上直久さんの描くファンタジー世界に対比されつつ、かつそれ自体精緻に描かれた背景美術によって命を吹き込まれる日常について、その弛みがちな温もりを確かに感じられ、回顧主義に陥らず今として貴く思える、いわばまなざしみたいなものを作品と共有することで、あの純情過多な暴走プラトニック恋愛劇を誠実に受け止めることができたのではないでしょうか。
また、そうであると同時に、埋もれがちな日常を物語として鮮やかに輝かせるために、共感という意味では絶対無敵の少年少女の空想的な恋愛をこそ、とびっきりのヤツが求められたのだともいえます。
ファンジーと日常という、世界と物語それぞれの対比構造をひらりと超越して、初心で幸せな恋愛がひどく卑近で美しい日常を舞台に紡がれていく。聖司への想いと不安を涙ながらに吐露した雫が、すすっているうどんはとても美味しそうで、それは僕らそれぞれを取り巻く他愛ない日常というものに向けた大仰な賛歌なのかもしれませんね。

 もし、このアニメーションを見て……
 「あんなところがあったら行ってみたくなった」と思う人がいたなら、
 「それはどこかにあるのではなくてあなたのいるところ、
 つまり、今、あなたのいる街が(村が)
 そうなのだ(そうだったのだ)」と答えたい。*1

近藤監督の描く、市井の人々がつつがない日常へと注がれる温かいまなざしは、「火垂るの墓」では思わず目を覆いたくなるほど残酷なまでに凛としていて、ああそうか、ただやさしいだけじゃない、まなざしが強いんだということに気づかされます。
近年頻発している自然災害や人災、自爆テロの横行や近隣諸国の軍拡化、さらには治安の悪化・凶悪犯罪の続発も織り込んで、戦後60年を迎えた日本にとって、「戦争」というかつて《塊》であった暴力と災厄がてんでちりぢりに拡散し、あらゆる側面からふとした日常へと忍び寄ってくる、かもしれない、目に見えない漠然とした恐怖と隣り合わせであることを再確認せざるを得ない節目となっています。
そういう時代だからこそ、よりいっそう、僕たちは日常というものに対するまなざしを、温かく強く連帯し、共有していかなければならないのだと思います。僕が僕であるためには、僕の日常《いつも通りの僕でいられる場所》がなによりも大切なのですから。
そして僕はどうしても妄想してしまう、近藤監督が今もご存命なら、こんな時代に、いったいどんな絵を、どんなアニメーションを描かれていただろうかと。どんな日常のささやかな種を育み、ぽかぽかなまなざしを注いでいくのだろうかと。
「そらいろのたね」で僕が好きなのは、どんどん大きくなっていく家に、次々入ってくる動物や子ども達が、後から入ってくるみんなにごく自然に場所を空けているところです。そういう風に、なんのわだかまりや衝突もなく、すんなりと同じ空間を分かち合い、演奏する楽しさという形で同じ時間と気持ちを共有することができたなら、どんなにか幸せだろうと思うんです。
インターネットの爆発的普及によって加速する情報化社会、際限なく広がっていく人々の世界認識にも関わらず、地球のいたるところで埋没する閉じた世界の境目で、民族主義ナショナリズムによる紛争やいさかいが後を絶ちません。
偏執し狭窄したそれらの思想にとらわれることなく、広がっていく世界認識に自分の分相応な日常をゆだね、わざわざ譲ってやるというのではない、ごく自然な流儀で"空(す)いた場所を空(あ)ける"ことで、それはすなわち同じ場所を共有することに繋がっていきます。
地球という共同住宅に住まう者同士、そして同時代人同士、今という"へんてこ"な匂いを共有することができたなら、そのへんてこ具合についてあーだこーだ語り合えたなら、それはさぞかし楽しい"ひととき"に違いありません。

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そんなこんなで。そろそろ恒例のよくわからなくなってまいりましたが。改めて思ってしまうのは、「そらいろのたね」に出てくるあの少年は近藤喜文さんとそっくりだなということです。似てないかなあ、年取ったら禿げ上がりそうなところとか。

*1:「ふとふり返ると 近藤喜文画文集」より