それはそうと。ラグナロクオンライン仕様の明治アーモンドが見つかりました。
http://www.gungho.jp/meiji/?ref=RO
ギルメンが「セブンイレブンにあった」というので、ダイエー系列のスーパーにならあるに違いないと睨んだ僕は(この時点で間違っている)、近所のグルメシティというスーパーで見つけたのです。1個158円。これでもう負け組とは言わせない。
1日1個は食べよう、けど週7個は労働基準法に抵触するかもなので週休2日制で、とりあえず5個買っておきました。
でもまだ昨日の分を食べきれていません。ちなみに昨日の分ははずれでした。ちくしょう。
これでも一応ダイエット中、2日に1回はウォーキングしてるんですよ?まぁ寒くなって汗もかかなくなってきたので意味なさげ、体重計にも乗ってないしなぁ。
憧れの70キロ台が遠ざかっていく…。
さっき来たお客さんのバストがすごいことになってて、同僚に「今の女のお客さんのバストすごかったっすよ!」と話したら、「へぇ月森さんはおっぱい星人なんですか。僕はおっぱいよりおしりが好きなおしり星人なんで、興味ないですねー」と言われました。
「いや、好きか嫌いかとで言われれば、もちろんぺったんこがいちばん大好きなんですけどね」と言えるわけがないので、僕は不本意ながらおっぱい星人レッテルを張られてしまいました。
僕にとっておっぱいはただ客体的な事実に過ぎなくて、ぺったんこは主体的な真理。外から認識するか、内から醸成するかの違いなんですよね。だから、おっぱいは触りたい、ぺったんこは鑑賞したい。そういう意味論。
星人といえば、今日の読売新聞から「時代の証言者」が宇宙飛行士の毛利衛(宇宙のまもちゃん)になりました。初回連載でまもちゃんがこう書いていました。

船長が「好きにしていい」と言うので、シャトルの天井の窓ガラスにしがみついて、地球を眺めました。「本当に地球が存在するのだろうか」という気持ちからでした。
シャトルの窓があって、そのすぐ外は真空。そのむこうに地球があって、大気や雲に覆われ、水がある。大きな球が、真っ黒な宇宙に浮いている。当たり前のことなんだけれども、確かに浮いている。本当に何もない空間に浮いている。それがよくわかった。これは地上では絶対にわからないことでしょう。

以前僕がここで「自分が信じなければ"死なない"プレイヤー」みたいな話を書いたことがあって、
http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20050717/p1
そのレスに以下のようなものがあったのです。

MMOもSNSもメッセンジャーもメールも、電話だって極論を言えば実際に会ったところでそこにある事実は、それを信じるかどうかだけのものだよね。
科学はその手法故に、限りなく漸近しながらも永遠にそこへはたどり着けないというわけだ。

まもちゃんが「あんなに苦労して、家族を犠牲にしてまで」「本当に地球が存在するのだろうか」ということを確かめに宇宙に行こうと思ったというのは、自分個人が信じようが信じまいがまったく関係なしに厳然と徹底と存在している事実というものをつかみたかったから、と言い換えられるのではないかと思ったのです。
自分が目を閉じてもそこに現実がちゃんと存在しているのをまぶたの裏で感じていたい、そういう欲求というか。
極論すると、宇宙に出て地球を眺めてみなければ、僕にとっての地球は存在していない。僕は地球の上で生きていると思っているんだけど、実は母胎の中で夢を見ているだけなのかもしれない。
この世界におっぽられて初めて「ああ、僕は生まれてきたんだ」という事実、自分個人が信じようが信じまいがまったく関係なしに厳然と徹底と存在している事実を"貰える"のだとしたら、やはり僕らは一度宇宙から地球を見なくちゃいけないんだと、思います。旅費がもっと安くなったら、だけども…。
地球というものが、概念上のイデオロギーではなくて、確かに存在しそれは僕たちが壊すことのできるひとつのファクトに過ぎないと認識できなければ、環境保全にしろ自然の叡智にしろ、人間は本気で取り組むことができないんじゃないかと。
まだどこか地球人は、地球が滅んでも自らの地球という概念は無くならないから、そこで安心しちゃってる部分があるんじゃないかなぁ。あるいは宗教的存在としての地球、教祖が死刑になったり施設が無くなっても信仰心は無くならないみたいな。地球がなくなれば概念も信仰心もないっていうのにね、現状。
まぁ、まもちゃんが「地球だ」と「五感で感じ」られた視点としての宇宙自体、実はその外側に上位宇宙が無限に重なりあっていて、最終的には全てひっくるめて母胎の中で見る夢と大差なかったというオチではないのかとも思うんですが。
だとしたら、地球を足で踏みしめるか、1層外の宇宙空間で眺めるかしかできない僕らは結局、自身のことと事実に対する認識はどこかで"ケリ"を着けなくちゃならなくて。そうなるとやっぱり、実際に会った人が生きているということ、少なくとも死んではいないということについては疑いを差し挟みたくないよねと思うわけです。
そんなこと考え出したら頭が参ってしまう。
とはいえ、元々頭が参っちゃってるのが人間の本性だからこそ、実際に会ったとしても「貴方と私」という事実をわざわざ信じるために科学という二度手間が必要になってくるように。最先端科学の力を結集させて地球環境を守ろうとするのも結構だけれど(本当に地球環境を守りたいなら科学を捨てればいいのに)、手っ取り早く人類を宇宙におっぽり出しておくれよと思わずにはいられない。
宗教的ではないリアルというものを僕らは、生まれた(そして生きている)という事と、死ぬという事以外に、「地球という事」について持たなければならないし。そうでなければ、例えば生まれた(そして生きている)という事に感謝し、死ぬという事に畏敬するように、地球という事に何がしかの真実的な思いを抱くことはできないのではないかな。
「地球という事」というリアルをつかみ、何がしかの真実的な思いを抱いた上でなお、人類が地球を滅ぼすことにやぶさかでないのだとしたら、そのときはひとおもいに滅亡したほうがいい。
それにしても。茅ヶ崎で凱旋パレードしてる日本人宇宙飛行士って、モンゴル人似だよなぁ…。