「人間嫌い」の言い分

「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)

「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)

とにかく「嫌い」「反対」「大嫌い」のオンパレードという率直さで、本というものにかつて感じえたことがないくらい本当に心から共感しました。快哉を叫ぶとはこういうときの気分を言うんだろうなあ。
自分の意見よりも相手や集団・世間の意向を重視し、それに柔軟に合わせていくこと、周りと同じであることで自分の立場を維持し、組織の中を上手く立ち回っていくような上っ面の協調主義・似非コミュニケーション能力が重視されるこの時代。彼ら社会の大部分を占める「つるみ系」とは反対に、相手や周りに合わせることができず、場の空気が読めずに自分の正直な意見を述べたり、打算的なやりとりや目上の者にへつらうといった対人スキルが欠落した、総じて人付き合いの苦手な「人間嫌い」を自認する著者が、「人間嫌い」こそ今日の壊れかけた社会における正常な反応であり、健全でしかも楽に生きていくためのスタイルであるというのです。
しかも、「つるみ系」所属の大多数の人たちでさえ心の中には確かに「人間嫌い」の部分があって、それに気づかず無意識のうちに抑え込んでいるからこそ、閉塞的な社会状況の下、精神的な病理症状を起こしやすくなっている。まず個人としての自らのありよう(弱さや欠点を含めて)を真摯に見つめ、孤独であることをしっかりと認識した上で自分の意見を持ち、対等の関係で相手や集団・世間と付き合っていくべきだという指摘は、誰もが頷ける普遍的なテーマであると思いました。
誰もが目指し、けれど誰もが難しいと思っているそのテーマを実現するための道筋が、人付き合いを極めることによって開けるのではなく、むしろ逆に人との距離を保ち、ときには退きひきこもることすら厭わずに自己を確立することこそが必要だという著者の提起は、とても意外ではあったけれども、翻って至極正当で当然。もっともな話なんです、どうして今まで気づかなかったんだろう。
どことなく息苦しく、他人の心はおろか自分の心すらも見えづらく、ただ生きているだけでストレスが溜まっていくこの社会をそれでも生きていかなければならない私たちを、本当に癒してくれるものは、やさしい言葉ではなく、癒し系の商品でもなく、「人間嫌いでいいんだよ」「寂しくて当たり前なんだよ」「みんな孤独なんだよ」といった、自分が自分のダメな部分だと思っているそれらをきちんと肯定してもらうということなのではないでしょうか。
「人間嫌い、それでいいじゃないか」「人間嫌いであることを認めようよ、本当の自分を認めようよ」「それからゆっくりと、本当に自分の好きな人間を見つけていこう」
へこたれたり、失敗したり、人間関係で辛い思いをしたとき、ふと手を伸ばすとすぐ読めるような場所に置いておきたい。とはいえ本書に甘い言葉などほとんど書かれてはいません、むしろ著者個人の恨みつらみを感じさせる辛いお言葉ばかり。痛烈で元も子もない指摘にそれこそへこたれてしまうかもしれないけれど、だいいち「人間嫌い」を自認することはそう生易しいものではないのです。厳しいのです。
「つるみ系」として狭く閉じた世界に不安定な自己を生きるか、あるいは「人間嫌い」として決別し広い世界に安定した自己の確立を求めるか。それを選択できる状態までもっていくことから、僕たちはまず始めなければならないのかもしれませんね。

 道徳を貫こうとする者が窮するのは「もとより」のことなのだ。それでもなおかつ、貫くのが「道」というものだ。(略)「君子もとより窮す」である。
 しかしそれでもいいのではないか。どうせ、悪人は最後には死ぬのだ。
 もっとも、善人もまた死んでしまう。道を思いながら世に受け入れられず、あたかも無能無用の人にしか見えぬままに死んでいった人もいるだろう。死は万人に平等に(というよりは無差別に)訪れる。その最期の時に、自分が窮した時間の長さを、心のなかでひとり誇るのが、人間嫌いの矜持である。

 「人間嫌い」とは、個々の人間を嫌うもののことではない。人間嫌いが嫌うのは、匿名性の陰に隠れている人間、人間のくせに自分の顔を持たないのっぺらぼうの怪物である。

 政治は多数派のものだが、思考は少数派においてこそ真に深まるというのが、人間嫌いの信条だ。

 完璧な結婚相手など、どこにも存在しない。もし結婚に条件があるとすれば、それは「諦められる相手を見つける」ということではないか。条件に合わなくても「まあ、この人ならいいか」と思える相手。それが、本当に自分に合った、いい結婚相手なのだろう。それは別に、はじめからそういう関係でなくてもいい。時間をかけてそのようになっていけばいいのである。他人との「関係」に努力と忍耐が必要であることは、人間嫌いならよく知っているだろう。

 「持ちつ持たれつ」「おたがいさま」の仲間意識が、「やってあげて当たり前」の謙虚で大らかな人生観に結びつけばまことに結構だが、どちらかというと「やってくれてもいいのに」という不平不満や嫉妬偏見に結びつくケースが少なくない。
 逆に、他人になるべく迷惑をかけず、期待もせず、ひとりで大丈夫なように生きようと思っていれば、たいていの不満は不満ではなくなる。「そうだろうな」で済む。それが人間嫌いの利点である。(略)
 人の思惑など、かまってはいられない。諸縁は諸悪の元。そのように思っておればこそ、万一親切にしてもらえたら奇跡だと思って心から感謝できるし、たまたま自分が何かしてあげても、その見返りなど端から期待しないで、無心でいられるというものだ。

人間嫌いのカッコ良いところ(人間嫌いの理念)を集めてみました。もちろん、各自に適用していく過程でそれはあられもなく"修正"されていくのでしょうね。「そんな作業工程までいちいち構っていられるか。貴方が勝手にやってくれ」。だからこそ本著に描かれている「人間嫌い」像はこうも理想高邁なのでしょうなあ。(11/100)