チャット恋愛学

チャット恋愛学 ネットは人格を変える? (PHP新書)

チャット恋愛学 ネットは人格を変える? (PHP新書)

地域コミュニティが崩れ去り、人間関係の希薄化した今日を<コミュニケーション不全の時代>とし、しかし人というものがいわば本能的に他人とコミュニケートすることを欲望として持つ存在であるがゆえに、それは<コミュニケーション渇望の時代>だとも言える。その不全性がネットコミュニケーティング、その中でもチャットの匿名性・リアルタイム性とよく親和し、社会的に人と隔絶させられますますコミュニケート欲を掻きたてられた人々は、ネット環境の爆発的普及とあいまってチャットに著しくハマっていく。
ネット上でのコミュニケーションが特性として持つ、心理的物理的に遠いはずなのにとても近く、リアルタイムで話しているのに視線を感じることなく、それは地位も身分も年齢も全く異なる見ず知らずの他人同士という、リアル的な矛盾と奇妙はネットと匿名性が結びつくことによって巧みに整合され、返し刃で生み出される強力な親近感は、見ず知らずの他人であるからこそプライベートに易々と切り込んでいけるという論理を肯定します。
ネット空間に人格を浸透させていくことによって人々は、社会において受動的に演じさせられていた偽りの自分を脱ぎ、ネットで自分が本来望む本当の自分を積極的に演じていくという意識が生まれる。特にチャットでの閉鎖的リアルタイムなコミュニケートを通して、「ほんとうの自分探し」と密接に結びついた「ほんとうの自分をさらけだせる」という開放感は、自分をそうさせてくれる特定の相手に対する依存を強め、「ほんとうの貴方」をわかってあげられるのは私だけ、という思い込みの陥穽に陥りやすくするのだという。
匿名だからこそ相手にありのままの自分を見せられるという意識と、匿名だからこそ相手に都合の悪い部分を隠し遂せることができるという事実。チャットから生まれた恋愛の悲劇的結末に多く触れてきたという著者が、リアルにある偽りの自分とネットにある本当の自分という、分離した別個の存在、しいてはネットが人格を変えるのかという自身の立てた問いに対して、否定した上でこう処方箋を与えてくれます。
ネットであるべく姿として演じているのも、リアルで強制的に自らを偽っているのも、「いま、ここにいる」、決して隠し遂せないリアルの自分なのだという変わらない事実、それへの気づきが現実へと私を引き戻してくれるのだ、と。チャットが自分を変えるのではなく、チャットで自分が変わる、引き金を引くのはあくまで自分自身だということ。
そう考えてくると、チャットで出会った相手も、ディスプレイの前でキーボードを叩いている自分と同じ現実を引き受けている存在なのだということになります。いわば
【<演じる自分-偽りの自分>←<いま、ここにいる自分>】←俯瞰点→【<演じる貴方-偽りの貴方>←<いま、そこにいる貴方>】
俯瞰点に第三者的視点を"潜り込ませる"ことができるようになれたとき、人々はネットコミュニケートをごくありふれたツールとして、ハマった末に手痛いしっぺ返しを食らうということなく、使い方によっては多少つまらなく感じるくらい普通に用いることができるのかもしれませんね。
あるいは、ネット上のコミュニケーションに限らず、ネットで著されるテキスト・CG・映像・表現一般と自分との係わりあいについて、僕らはその俯瞰点をお守り代わりに留保しながら、常時相対化していく"癖"を身に付けていくことが求められているような気がします。何言ってるんだろうなというような気もします。(14/100)

 ここ(ギャルゲー)には、<わたしを成立させるあなた>を求める志向がある。わたしがわたしとしてのリアリティを獲得するためには、あなたという存在が必要であり、そのためにあなたとつながっている必要がある。だから恋愛はすでに目的ではない。それは、わたしがわたしとしてのリアリティを獲得するための手段となっている。

このテキストはササキバラ・ゴウって人が書いたもの。まさか「ギャルゲー」なんて単語が出てくるとは思わなかったから、びっくり。

 もちろん、だからといって、チャット恋愛に陥るすべての人が、チャットという装置に騙されているのだ、というつもりはさらさらない。相手を「愛している」と思うその感情自体に嘘偽りはないだろうし、そもそも、恋愛というのは社会的な装置のなかで生まれ、その影響をウケながら発展していくものだ。そういう意味では、チャット恋愛も、通常の恋愛となんら変るものではないのだといえる。たまたまチャットというツールが恋愛の発生と発展のきっかけになっただけで、個々人の心のありようは、通常の恋愛と同程度に純愛だし、また同程度に打算的なのではないだろうか。