揺らぐ社会の女性と子ども

著者が1983年の大昔からから現在に至るまでに書き上げた(多くあるだろう)論文のうち、「揺らぐ社会の女性と子ども」というタイトル・テーマになんとなく通じてそうなものをいくつかまとめて上梓したような本です。
読み進めていて「面白くなってきたぞ」とページを繰ると「参考文献」という文字が目に入ってきて「もう終わりかよ」とがっかりするというようなプロセスを14回繰り返したような本です。
「序」で書いてあるとおり、「目的地もわからず、振り回されて徒労感だけが残ったということに終わってしまう可能性」はまさに現実のものとなっております。この本はいったい誰のために書かれてあるんだろう、少なくとも僕のような一般読者のためではなく、著者の携わっている研究室、または著者が講義で教えている学生か、あるいは著者自身のための本であると言うことができるでしょう。14章、ええと、前期の講義回数分ですかw
論稿のポイントはことごとく引用によって押さえられ、なおかつ著者の組み入れたいご大層な引用をごく自然に繋ぎあわせるための、ロープか、留め金として著者の意見が差し挟まれているかのようで、まさに「振り回されて」とは言いえて妙だなと思ったしだいです。
おそらく学生や好学の士が、各々豊かな思索的着想をえるためにこそこの本は価値があって、参考文献へ有機的にリンクする、クリエイティブに結実していく、知的好奇心を糧に羽ばたいていくその土台となるものなのでしょう。そういう意味では非常に優れた社会学的発想集ではあります。
ただ、僕は学生でも好学の士でもないので、今はただ「徒労感だけが残ったということに終わってしま」いましたとよ。読んでいるときにいろいろ考えたことはあったけれども読み終わったいま、こうしてそれをテキスト化する気がなくなっている、いわゆる「生き生きとした」ものが残らないこの心理状態がまさに、「徒労感」というものなんでしょうか。
とはいえ社会学というものは、結論的にはどうというほどのものはないのに、その切り口や論理過程はほんとうに広く、豊かであることを思い起こさせてくれます。そもそも社会学は現実をドラスティックに変えていくパワーを持ち得ないものであるかもしれないけれど、その現実をどのようにも分析し解釈し定義していく、洋の東西を問わず多くの学者の営々たる創造的ともいえる思想的積み重ねによって、現実を構成する社会と、その成員である人々のそれらに対する認識(まなざし)の変革を促すものであるのでした。
僕がいま感じているような徒労感を、生き生きとしたものとして自らの中で再構成していくことができなければ、ならないわけで、となると、そもそも社会学の本を読んでなにかしらを語るなんてこと、僕にはできそうもないしできるわけがないんですよね。ははは。(17/100)

 科学という磁場においては、、平均値は単なる平均値としてとどまることはできない。労力をかけて観察し獲得した結果を無意味だったと認める科学者はおそらくいないであろう。(略)何歳何ヶ月になる子どもは何ができるのかという発達の基準の根拠は、多くの子どもたちの平均がそうであるという事実にあるが、平均値という抽象的な数値の背後には、平均値とは一致しないさまざまな具体的数値が横たわっていることは、視野から消え去ってしまう。(略)
 「比較」が諸悪の根源である(略)成績によって振り分けられ序列化される風潮の中に長く身を置けば、いつのまにか比較をして優劣の差に一喜一憂する心性が身についてしまうことは避けられない(略)そのとき、子どもを育てる喜びは、その子ども自身の伸び伸びとした成長の過程を見ることから、他の子どもより優れている点を見いだすことにすり替わってしまう。(略)
 何もかもが新鮮にうつる子ども時代には、浜辺で波に洗われながら砂の城を一生懸命築くこと、自分の体よりも大きな砂糖のかたまりを運んでいくアリの行列を飽かず眺めていることなど些細なことがらに生きていることの喜びが見出されるのである。このような子どもの心に、母親はいったいどれくらい共鳴できるかが、諸悪の根源である比較からどの程度逃れられるかの分岐点である。

 親となることは人間的な成長にとってプラスとなる体験だという見方が浸透してきており、わが子から多くを学ぶことができると考える人たちが出てきている。(略)つまり、高度産業化社会に適応して、機械的合理性の支配する窒息しそうな生活を営んでいる日常から脱出して生の充足感をもたらしてくれる存在が、子どもなのである。
 とはいえ、(略)生の充足感が、ただひとつ、わが子という存在にかかっていく生き方は、閉じられた世界の危険性を裏に秘めていることに気づく必要があるだろう。

 「彼(高貴な心を持つもの)は彼の最高のものが賞賛や報酬によって支払われないように、まさにそれを隠蔽する。それというのも支払われれば、それによって、人はいわば代償を所有することはなるが、しかし本来の価値そのものはもはや所有しなくなるからである」

これはまさにアーヴ……。

 「だれかある他者にとっての他者のひとりでありえているかという、そうしたありかたの中に、ひとはかろうじてじぶんの存在をみいだすことができるだけ」(略)「『じぶんらしさ』などというものを求めてみんなはじぶんのなかを探しまくるのだが、実際わたしたちの内部にそんなものあるはずがない。(略)それより、じぶんがここにいるという感覚のなかに身を置くためには、眼をむしろ外へ向けて、じぶんはだれにとってかけがえのないひとりでありうるかを考えてみたほうがいい」

 しかし、「自分探し」がアイデンティティ・ゲームの土俵でなされるもりであり、(略)「われわれは、自分という存在そのものには何の価値もないと信じている」からこそ「存在証明に躍起になる」ということなら、今日の「自分探し」は、個体が環境に過剰適応して、自己破壊的になっていくという強迫的な側面をもつ嗜癖の一種であることを認識しなければならない。

 「人々はなんとかしてだれかに自分のいうことを聞かせたい、だれかが聞いていることを確信したい、と絶望的な欲求」を抱く。情報洪水の中で、送り手から発信される情報が受け手に届きにくいこと、それに加えてフィードバックが返ってくる率が少ないとなれば、相手にメッセージを確実に届けたいとの思いがつのって、人を押しのけてでも必死にしゃべり続ける人が出てくるのは不思議なことではない。(略)自らの聞き流しの態度を相手に投影し、それに対する強迫的多弁に行きついているのであり、結局、情報過剰社会の生み出すコミュニケーションの典型的な型なのである。

ブログの流行やトラックバック・コメントという機能もつまるところ、情報過剰社会に適応した自らのありようを読者に投影した、テキスト代替的な「強迫的多弁」を着実にコミュニケーションとして実現させることを保証する、インターネットというシステム内の装置の一発展形態とその機能なのかもしれませんね。
本来あいまいな隣人や読者という存在を、トラックバックやコメントは、確かな隣人・読者として自らに"手繰り寄せる"ための手段であり、ブログはそのためのメディアなのでしょうから。
ただ僕は、「誰にも読んでもらえていないかもしれない」という不安を抱くというよりは、「誰かに読んでもらえているかもしれない」ということに意外な喜びを見出しています。机の中の日記帳に書いたところでそれが読まれる可能性は、母親くらいなものですけど、はてなダイアリーなりにアップすればまず間違いなく、幾人かの目には触れることになるのでしょうから。
「誰かに読んでもらえている」という場合の「誰か」とは、複数である必要はなく、たくさんの人である必要もなく、ただ、形式的抽象的存在としてのどこぞの誰ぞでもない"ひとり"であれば良いのです。読む人がいるから書いているのではなく、書きたいから書いているだけであって(書きたいことがあるわけでもない)、話すために相手がいるのではなく、話したい相手がいるのなら話すのだと、僕は多少強情に考えていたりします。

 「ノスタルジーの対象は、よく生きた過去であるよりも、むしろしばしばよく生きていない現在である」

 「人間の日々のいとなみのただなかに、突如として、存在の核心をゆさぶるような震撼がやってくる。そのとき人は、ふたたびみずからの存在の序章をふりかえる。あらゆる瞬間を全的に生き、無上の真摯と信頼とをもって生に直面した、あの幼い日の自分をさがし求める。こうした幼い日の行為や苦悩を措いて、どこに自分の本然のすがたが描かれてあるだろうか。幼年時代は、自分が現在いま立っている場所がどこであるかを、仮借なく指摘する」

幼い日=子ども時代とは、

 平凡がそのまま非凡である世界の記憶

見てください。(僕がする)引用まで(著者がした)引用ばかりじゃないですか。