あふれかえる情報の中で、私たちの情報への感受性は鈍くなっている。食事中に殺人事件の映像を見ても格別感じることもない。(略)
 しかも、受け取っている情報のほとんどは、あらかじめ誰かが加工した情報である。できあいの加工された情報であれば、いっそう情報に対する鋭い感受性とそれを読み解く力が必要なはずだが、私たちの感受性と読解力は衰弱している。(略)
 私たちは機器操作の習熟には熱心だが、それから知り得るのは、すでに加工された情報だけで、それ以外に質量豊かな情報があることや大量情報のなかに大きな空白があることに気づかなくなっている。しかも、感受性が鈍くなればなるほど、かえって情報飢餓感が生まれ、ますます大量の単純な情報を求めることになりがちなのである。
 いま必要なのは、情報機器の発達に私たちが追いつくことではない。考えるためにあえて立ち止まる精神である。これまでの文化と歴史を学び、自分の体験を反すうすることによってこそ、情報の意味を考え、情報を読み解く力をつけていくことができるだろう。

 (理解しにくい動機による未成年犯罪の)動機が理解できないということは認めるべきです。ただ重要なのは、なぜ感情の働きが壊れたように見える人が増えているかです。
 かつて、男の子が小動物を殺すのはよくあることでした。(だが)殺せる子も殺せない子もいたし、人を殺せる人も殺せない人もいるが、その差異を生むメカニズムは同じ。育ち方です。かつて子供は似たような育て方をされ、人を殺してはいけないという社会通念が成立した。
 いまや社会が過度に流動化し、共同体も崩壊して、通念という共通の前提に代わって、家庭環境やメディア環境、対人環境が育ち方を決める。
 ではどうするか。現在の条件では、成員の多くがまともでなくても社会が維持できるよう、取引をするしかない。(常習的性犯罪者の体にチップを埋めこみ性不快に訴えることや、監視体制の徹底と強化など)
 それがいやなら、共通の前提を取り戻す必要がありますが、社会はその方向には向かっていない。(略)
 地域社会を意識的に守ってきた欧州人とは違い、日本人は変化に抵抗せず、(その結果共同体の崩壊はさらに進み)現在の社会が出来た。もし方向を転換すればある程度条件は変わるでしょうが、日本人はそんな決断をするでしょうか。

あいりちゃんの片方のハイソックスの行方が気になって仕方がないのは、僕の鋭い感受性と読解力ゆえのものなのか、それともチップによって不快を与えられ監視されるべきものなのか。それが問題です。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20051124it01.htm

 「高校生なら、付き合ったらセックスまで経験するのが普通、と思っていた。性感染症などの知識もなかった」。20歳を過ぎ、互いを思いやる恋愛をして初めて、高校時代を後悔した。その思いを胸に、「経験を早まらないで」と高校生に訴えている。

「高校生で付き合ったら普通セックス」という意識は、どちらかというと本人たちから自然に生まれだされたものではなく、「高校生くらいのセックスが他世代のものより比較的"見栄えがいい"」という傍観者(偏在的第三者)の潜在的で前提的なまなざし(文化的美的感覚)に拠るところが大きいのかもしれませんなあ。
身体が最初の成熟を迎えた高校生だからセックスをするのは自然なことだという思いと、道具ができあがったから僕らは何かを為すのではなく、何かを為すに際して(そのとき)道具ができあがっていれば良いのだいう思い。
身体とこころの関係は、自分だけの問題であって自分だけの問題でないというところが非常に悩ましいですなあ。