ドキュメント 女子割礼

ドキュメント 女子割礼 (集英社新書)

ドキュメント 女子割礼 (集英社新書)

世の中には知らない方がいい現実というものがあって、日本人そして男性にとって、知らない方がいい、というよりおいそれと知るべきではない現実、それが、「女子割礼」。しかし本著は、アフリカにおいて毎日6000人の少女が性器切除を(喜ばしいこととして!)受けているというおぞましい現実を、まず「知り、理解し、それを廃絶しようと努力する人たちと連帯し、応援していくこと」を、「今できること」として読者に伝えます。
知ること、そして理解すること。確かにこの本を読めば誰でも女子性器切除/割礼について知ることはできるし、よく読めば理解することもできるでしょう。けれども僕は心のどこかで、あまり真剣に知ろうとしていない、理解しようにもその現実はあまりにも、僕のものと途方なく隔絶していて(物を離すと天に昇っていく物理法則の支配した異世界をにわかに信じることができるだろうか)、そら恐ろしいくらい、虚しい気分にさせられます。
カミソリで―を切り取る、―を切り落とし(とにかく黒っぽい部分が全部きれいに取れるまで)、―に切込みを入れその両端の傷口を合わせアカシアのトゲで縫い合わせる。尿や月経時の経血を通すため―の下部に小さな穴を開けておいて、それが小さすぎる場合はマッチ棒を挿しておいて、出すときに外す……。(女子性器切除の最悪ケース「陰部封鎖」)
こんな現実を安易に、知るとか、理解できたとか口にできる方がむしろおかしいでしょ。ましてや男の僕に。「なんだよ、なんなんだよそれ!」というのが本音です。
しかもそういった非人間的な因習が、例えば生きた魚の踊り食いを外人が「非人間的だ」と非難するのを「お門違いもいいところ」と率直な反感を覚える日本人の心持ちと同次元で、自分たちの住む地域固有の文化に根ざした尊ぶべき伝統的風習だとして、先進国の一方的非難に反発し、かえって頑なになってしまっていたりする。
絶対的な男性優位社会、男性と結婚しなけれ女性は生きていくことすらままならない環境、女性に貞操(→性欲抑制)と処女性(→その保持)を求める男性側の性意識・結婚観、大人の女性として成人する(男性の結婚対象となる)ための伝統的通過儀礼、所属する地域コミュニティで生活していくために不可欠な"証"、これらの根強い社会文化的要因が女子割礼を今も堂々と存立させているのです。
そうはいっても、女の子が大人の女性になるために、女性の最も敏感である性感帯を削ぎ取ってしまわなければならないのだとしたら、その「大人の女性」とはそもそもなんなのか。誰のための「女性」だというのか。少なくとも、性交時にオーガズムもへったくりもないのだからそれは本人のための「女性」でないのは明らかだというのに、それを現地で声高に叫んだところで、「我々の文化に対する冒涜だ!」言われるだけだというのなら、僕はそんないかんともしがたい残忍な現実を知りたくありませんでした。

「(エジプト人)男性にとって、男らしさとは自分の性的能力と非常に強く結びついている。そして自分の男らしさを確認するには、女性とのセックスで自分の性的能力を示さなければならない(ペニスの包皮を切り取り「感度を高める」のが男子割礼)。だから男性は性的不能になることや、女性をセックスで満足させることができずに面目を失うことを、潜在的に恐れている。それは男性の弱さにつながる。そこで、男性が常に強者でいられるためには、女子性器切除で女を性的に弱くし、征服してしまえばいいと考えている」

確かに、現実の同年代の女性を性的に満足させてあげる自信のない男性が、エロゲーやポルノグラフィを愛好しているというケースや、心理要因が見出されるかもしれない。性犯罪被害者の低年齢化についても、「常に強者でいられる」元来「性的に弱」い幼女を性的対象として捉えることで、「征服」することを可能たらしめようという潜在的風潮としての動機を否定できないでしょう。アフリカだろうが日本だろうが、セクシュアリティとしての男性(自己)像とその抱えている危機は大差ないといえるのかもしれない。
ただそこで、アフリカ人はまざまざと現実を生きていくしかなかった、僕らはさらりと空想に逃れていくことができた、今日においてはただそれだけの違いなのかもしれません。アフリカ人は決して異世界の住人ではないのだという(物を離すと地に落ちる→痛いことも気持ち良いことも同じ)、原始的な共感を思い巡らせることからとりあえずは始めようと思いました。(20/100)