他者といる技法

他者といる技法―コミュニケーションの社会学

他者といる技法―コミュニケーションの社会学

私たちは、社会を生きていて、社会とは、自分・主体性をもった自己とは異なる、他人・別の自己をもつ他者と一緒にいるところ。その社会で私たちは、ほとんど無自覚的にさまざまなコミュニケーション技法を駆使して、他者と折り合いをつけながら飄々と生きています。相手の考えていることが手に取るようにわかる時もあれば、「お前の考えていることはわかりやすいよな」と言われたりもして、それなりに快適です。
しかしながら、自分と貴方は確かに同じ人間で、同じような価値観・常識・パラダイムをもっているとしても、僕の自己(主体性)と貴方の自己(主体性)はやっぱり違う。僕の考えていることの隅々まで貴方は理解することはできないし、貴方の考えていることの隅々まで僕は理解することはできない。方便的にある程度可能ではあるにせよ、原理的に、私たちは完全に理解しあえることはできないのです。
「それでも私たちはわかりあうものなのだ」
私たちは心のどこかで、そう確信しているのではないでしょうか。人は人を好きになる、相手のことを理解したいし、自分のことを理解してもらいたい、そうして実際わかりあえるからこそ、愛し合えるんじゃないか、そういうものなんじゃないかなどと、僕は結構本気で思っていました。少なくとも、気づかぬ振りをしていました。
理解する・される、わかりあうという欲求は、神聖なもので、相互理解・世界平和を導く完全無欠の素晴らしくポジティブなイメージを抱かせます。反面、どうしても理解できない(その糸口すらつかめなさそうな)国家・文化・他者というものも確かに存在します。
その状況を、「自分の理解力が足りないからだ」「本気でわかりあおうとすれば少しずつ見えてくるものだ」という風に、自分をさらなる理解へ過剰に押しやっていくような心理作用は、果たして正当なものなのだろうかというおぼろげな疑念。
人は、それが究極的に実現不可能であると薄々気づいているような対象であったとしても、いつまでも理解しようとしなければならないのでしょうか。理解しようとすることを辞めることは、非人道的で、不道徳的で、非難されるべきものなのでしょうか。
盲目的に思い込まされてきたこの認識の鉄籠から、僕を解き放ってくれたのが本著の主張でした。

 そこにはいつも私の「理解」を超えた、予想もつかない「他者」がいる。「わかりあわない」ということは、そのような「他者」を「他者」のまま発見する回路を開いているということだ。それは居心地は悪いが、でもたくさんの発見や驚きがある。「わかりあう」世界には、安心や居心地のよさはあるが、そのようなものはない。(略)
 私たちは「わかる」こと(安心できる居心地のよい場所)にすぐに着地したがる。しかし、より困難で大切なのは、「わかる」ための技法よりも、「わからないでいられる」ようにする技法であるように私は思う。

人と人とはわかりあえるのだ、わかりあわなければならないという意識は、ある場所では幸せな居心地の良さを生み出す原動力となりうる。わかりあうということは、原理的には不可能だけれども実践的には可能であるのだし、事実、僕らはある程度のわかりあった人間関係の中で生きてもいるのだから。
しかし、その意識は全ての場所で通用する万能で神聖なものではなく、過剰な「わかりあおう」という意識が、どうしても理解できない他者や文化・国家を排斥しようとする風潮を生み出したり、大雑把な把握・ステレオタイプ・偽りの居心地のよさが、偏見と差別を醸造させたりもする。
「わかりあう」という絶対正義を相対化して、緩め、「わからない」という絶対悪を相対化して、赦す。他者を理解できないことは他者の同一性を認めることであり、自己を理解してもらえないことは自己の同一性を確保することでもあったりする。
僕らは「わかりあい」という天使の羽をぱたぱたさせて完全理解のエデンを目指し空を泳いでいるのではなくて、「わからない」という地平を、山を越えた先の他者を目指してゆるゆると歩いている存在なのでしょう。わかりあえず空を落とされるのではなく、足で踏みしめる大地はいつもたくましく、ゆるぎない。わかりあわなくあるべくして、僕らはこうして在るみたいなのです。
そうしていつか訪れる、たまに到着する「わかりあい」は、山の稜線から昇り立つ太陽のように、まばゆいばかりに幸福なことであるんでしょうけどね。
奥村隆先生は、僕が大学の教養課程で受講した「社会科学概論」の講師でした。人気のある講義だったけど、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が必読書で、読書嫌いのダメ大学生(初期)の僕には辛かった思い出しか残っておりません。今や教授先生ですか。立派になっちゃってもう……。(23/100)